男が一線を退くとき。そのとき妻は…。ノムさん・サッチーの場合
野村の哲学ノート④
■人生の節目に背中を押してくれた「なんとかなるわよ」
マイナス思考である私がプラス思考そのものに強い憧れを抱くことはない。ただ、このときと同じように、沙知代の「なんとかなるわよ」に、人生の節目節目でどれだけ救われてきたかわからない。
「これからはユニフォームを脱いで、違った角度から野球を観させていただけそうなので、背番号なき現役として頑張っていきたいと思います」
1980年11月26日、私は現役引退会見でこのような言葉を残している。そして、「背番号なき現役」として、評論家活動をスタートさせた。
仕事としては、テレビやスポーツ新聞などの野球解説や評論を中心に手掛けるつもりだったのだが、意外なことに立て続けに舞い込んできたのが講演の依頼だった。当時は、社員教育の一環として社員を対象にした講演を実施する企業が多く、いわば講演ブームだったのである。
そのため、スケジュール管理は沙知代にすべて任せ、全国各地を飛び回った。1日2回の講演会は当たり前であり、時には3回行うこともあった。
1日に3回講演する日などは、3回目の講演会の途中に、
「あれ? このネタは1回目か2回目のときに取り上げたのだろうか、それとも、冒頭ですでに使ってしまったのか?」
と頭の中が混乱するほど、朝から晩まで話し続けた。
休日もほとんどなく、ハードな毎日を9年間も過ごしたが、それができたのも、40代半ばから50代半ばという年齢だったからこそだろう。言うまでもなく、今の私にはとても真似できない。
ただ、スケジュールが厳しいことを理由に仕事を減らしたいと思うようなことは一度もなかった。そこはやはり、貧乏だった少年時代に培ったハングリー精神が物を言ったのではないだろうか。