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大阪冬の陣 木村重成・後藤基次隊と佐竹義宣隊の戦闘は京橋口から始まった?

季節と時節でつづる戦国おりおり第333回

大坂冬の陣・鴫野今福の戦いを歩く④

 佐竹隊が京橋口の西まで取り詰めたとすれば、その隊列は堤防上で細く大きく伸びきっていたということになります。
 これに対し城内から木村重成・後藤基次が3000の兵で出撃したといいますが、これも京橋口から出ていますから、通説とは違い今福で両者の衝突が起こったわけではなく、京橋口の外ですでに最初の戦闘が起こっていた筈です。実際、根来の鉄砲衆の一員と根来知徳院ほかが片原町口で佐竹隊に銃撃をくわえ、重成に救援を要請したという証言があります。つまり、

①今福の戦いは今福村の堤防で第一次戦闘があり、
②そこで矢野らが戦死して敗残兵が大坂城まで逃げ込もうと京橋口まで潰走するのを佐竹隊先鋒が追い、
③それを木村・後藤隊が側面攻撃。佐竹隊先鋒が崩れて今福まで後退するところを木村・後藤隊が追撃、付け入る
④第四から第二の柵までを木村・後藤隊が第一の柵に布陣していた佐竹家家老・渋江政光が討ち死に
⑤本陣の佐竹義宣がみずから戦うほどの激戦となる
⑥南の上杉隊ほかが大和川の中州まで進出し、木村・後藤隊に対し側面から銃撃
⑦逆に大坂城内から進出しすぎた木村・後藤隊は孤立を恐れて退却
⑧佐竹義宣は若宮八幡あたりに本陣を進める

 という経緯になったと考えて良いでしょう。通説では木村・後藤は大坂城北東の青屋口から出撃し、大和川を渡って佐竹隊に攻めかけたとなっていますが、それとは様相が異なり、戦闘は京橋口から始まった、というのがミソです。

 

 若宮八幡から東へ500mほど歩いたところには、「今福・蒲生の戦い跡」の碑。このあたりで渋江政光が討ち死にしたということになるでしょうか。

 

 碑の側面に「後藤基次・木村重成奮戦の地跡」の文字。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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