義昭二条城、築造開始
季節と時節でつづる戦国おりおり第463回
2月19日から21日にかけて大阪城で開催された「地下に眠っていた秀吉の大坂城石垣を発掘しました」発掘調査現場一般公開に見事落選(新型コロナウイルス対策のため人数限定の上小グループごとの交代見学)し、意気消沈したまま春を迎える、筆者です。よろしく。
そんな哀しさを引きずりながら、今回の話題はやはり城にしましょう。
今から452年前の永禄12年2月2日(現在の暦で1569年2月27日)、織田信長が、京で将軍・義昭のための二条城(旧二条城、二条御所)築造の突貫工事を開始。
尾張・美濃・三河・伊勢・近江・伊賀・若狭・山城・丹波・摂津・河内・和泉・播磨の13ヶ国から石材が搬入され、午前7時半頃に起工式がおこなわれました(『言継卿記』『信長公記』)。
5日後には早くも西側の石蔵(石垣)はほぼ完成しました。
その規模は、高さ7.5メートル余り、南北390メートル(外堀のみ。内堀を加えると550メートル)ですから、それが5日で出来上がるというのは、凄まじい早さだと思います。
この大工事には毎日数千人(一説に2万人)の人夫が動員されましたが、『重編応仁記』によればそれでも人夫より侍の方が多く、順調には作業が進まなかった、といいます。
同書によれば、14日の信長の機嫌は良かったのですが、23日には不機嫌で面会も許されなかったとありますから、思わしくない工事の進捗具合に信長はピリピリイライラしていたのではないでしょうか。
この遅れを取り戻すため、信長が現場で陣頭指揮をとり、侍たちは泥まみれになって土を運んだのでした。
まぁ、当時の侍はそんな事には慣れっこでしょうが、信長は腰に虎皮を巻いてどこにでも座って監督できるようにした上で、常に白刃を提げているのですから、作業従事者はびびると思いきや、それでもご婦人をからかう不埒な兵がいて、信長に無言で一刀のもとに首を刎ねられています(『日本西教史』)。
どんな組織にも空気を読まない鈍感な人間はいますが、空気がわからないどころか、自分の首が飛んだのも気付かずに死んでいったのでしょうね。
※京都御所内に復元された旧二条城石垣