その処罰にも意味があった?徳川家康の深慮
季節と時節でつづる戦国おりおり第464回
新型コロナウィルス対策に関しては、再度の緊急事態宣言の発出にあたってあれだけ渋りに渋った政府が、今度はその解除に極めて慎重な態度。その都度の状況などを考慮しなければならないにせよ、場当たり的な印象は否めません。外野からの雑音も多いでしょうし、同情の余地はありますがより一層長期的・大局的な視野に立って政策決定していただきたいものです。みんな、ここまで我慢したんですから。
そんな訳で、今回のネタは家康さんの短気?いやすべて計算?というエピソードを。
今から415年前の慶長11年1月25日(現在の暦で1606年3月3日、徳川家重臣の青山忠成と内藤清成が、江戸近郊に狩場に罠を仕掛けたという理由で罷免され、篭居を命じられる。
江戸幕府老中・関東総奉行職の青山忠成と内藤清成は、関東の鷹場で庶民に狩猟用の罠を仕掛ける事を許したとの罪により、謹慎蟄居となりました。
その鷹場ですが、『寛政重修諸家譜』『青山家譜』には「武蔵相模両国」の境とあるだけ。
一方、『武野燭談』には「十金」とありますが、これが東金の事なら、当時は上総国であり、結局どこだったのかは判然としません。
そこの鳥が冬になると畑の作物を荒らすので、困った農民の請願により害鳥駆除のための罠の使用を許した、という事で、その鷹場で放鷹を楽しもうとした徳川家康がこれを知り、「将軍の鷹場に対する僭上のやり方だ」と激怒、一時は切腹を命じられかけたが、家康側近の本多正信が取りなして蟄居で済んだ、という事になっています。
しかしこの話、はなはだ不自然で、正信も青山・内藤とともに関東総奉行であり、本来は連帯責任であるべきところが、彼だけが罪に問われずあまつさえ命の恩人扱いされるのはおかしいですし、忠成は1年近く経った11月6日に赦免された直後から「しばしば加増あり」(『寛政重修諸家譜』)、最終的には1万5,000石から2万6,000石に所領を増やしてもらっていますが、この昇給については『徳川加除封録』『恩栄録』に記載がありません。新宿の地名の元になった「内藤新宿」の主、清成にしてもそこそこ平穏にその後の人生を過ごしています。
どう考えても変な事ばかりで、うがった見方をすれば、秀忠を後継者に推薦してお付きの家老となった幕府第一の実力者・大久保忠隣も、この8年後に失脚する運命となる事から、2代将軍・秀忠を中心とする政治勢力と大御所家康とその腹心・正信を中心とする政治勢力との暗闘があったのかも知れません。
忠成・清成両人のライバルを失脚させた上でその復活に力を貸した体を見せた正信に対し、ふたりは頭が上がらなくなって以降正信の権勢が圧倒的になり、その後譜代筆頭格の忠隣まで排除するに至るという筋書きです。
また、家康は久喜にあった伊達政宗の鷹場に無断侵入して鷹狩りをやったという逸話が残るほど放鷹にご執心でしたし、優秀だったと思われる長男の信康を切腹させるほど自分の権力の保持には神経質でしたから、単純に彼の短気が原因だったというのもありえる話です。
ですが、この経緯、よく『青山家譜』を見るとこんな記述にぶつかりました。
「禁止は秀忠が決め、罠の話を知った家康が不機嫌になったのを聞いた秀忠が処罰を決めた」という流れです。
とすると、家康にしてみれば、2代将軍となってからまだ1年しか経っていない時期に、幕閣の重要人物たちが、いくら領民を憐れんでのこととは言え、その命令を遵守していないという事実に危機感を抱いたのではないでしょうか。大坂城には豊臣秀頼が、西国には豊家恩顧の大名たちがおり、幕府は一枚岩の団結を図らなければならない、まだまだ不安定な時期です。自分が不機嫌を装うことで秀忠にふたりを処分させて幕臣たちに緊張感を持たせた、いわば「一罰百戒」を狙ったのではないでしょうか。そしてほとぼりが冷めた1年後に許すと。
もしそうだとすれば、家康の政治眼はさすがという他ありません。