「この世から消えてほしい上司」を排除させる対話術とは【福田和也】
福田和也の対話術
職場には「この世から消えてほしい」とさえ思うような嫌な上司がいるものである。そんな上司を排除できるのも、「悪の対話術」を身につけてこそ。真っ当な大人が信念をもって生きるための対話術を福田和也氏が指南する。(『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』から抜粋)
■観察眼を鍛える
言葉のなかで、一般的に評判が悪いのは噓とお世辞だと思います。
お世辞も広い意味では、虚偽に含まれるのですが、噓というのは、言葉の根本的な問題ですから軽々しく扱うことが出来ません。ここではまずお世辞について考えたいと思います。
お世辞はなぜ嫌われるのか。
それはお世辞が、ごく単純に、相手の歓心を買う行為であり、あからさまに魂胆をさらすことが恥ずかしい、見苦しく思われるからでしょう。
たしかに、非常に下手な、見え透いたお世辞を云う人を目の当たりにすると、ウンザリするものですし、さらにそんなことを云われていい気になっている人を見ると憐(あわ)れみすら覚えることがあります。
あるいはかなり厭(いと)わしく思っている人にたいして、不用意に追従(ついしょう)をしてしまう、ついついあからさまな迎合をしてしまった時には、誰だって、厭(いや)な気持ちがするものです。
こういうことを書くと、自分はそんな思いはしたことがないとか、どんな時にもお世辞は云わない、と決め込んでいる人がよくいますが、本当にそう思い込んでいるならば、それは対話について考える資格がそもそもない。心にもないことを云って、「正直な自分」を巧く売り込もうとしているのであれば、面白いとは思いますが、ただそういう手管(てくだ)は、かなり高度な技術が要求されますから、なかなか説得力をもつのは難しいと思いますけれど。
話を戻しますが、ある意味ではお世辞ほど言葉のやりとりの妙味を象徴しているものはないと思います。そこに話すことの困難が集約的にあらわれていると云ってもいい。
例えば、私は、文壇というところに棲息しているのですが、この世界は、なかなかお世辞が発達した世界です。作家というのは、小説などというものを書いているくらいですから、みな自意識過剰で、虚栄心が強く、その上猜疑心(さいぎしん)まで発達しています。何かいいお爺さんのような顔をして、俗世と縁を切ったような顔をしている人がたくさんいますが、騙(だま)されてはいけません。白紙にむかって文章を書くという孤独な作業は、枯れていたらとても出来るものではないのです。
そういう世界ですから、社交というのはなかなか大変なのです。作家同士にしたって、批評家や編集者の間だって、まことに微妙、かつ繊細なお世辞が飛び交うことになります。
無論「面白かった」だの、「感動しました」だのという月並みな世辞は許されません。腕によりをかけて、著者が一番褒(ほ)めてもらいたそうなことを云う。それが的確に云えてはじめて、一人前の文壇人と云えるのであって、私は正直な感想を云います、なんて開き直っている奴は、ただのナマケ者にすぎません。あるいは甘えているだけです。
まぁ、文壇はいきすぎかもしれませんが、どんな世界でもそうでしょう。力をもっている、エネルギーと魅力にあふれた男たちは、みんな褒められ慣れていて、追従に浸っている。そういう連中を一発でまいらせるようなお世辞を云うにはどうすればいいか。考えてみたことはありませんか。
芸を磨いて、どうやって海千山千のつわものを喜ばせるか、そこのところを努力するのが、旺盛に生きる者のなすべきことです。世辞のために策を弄(ろう)するなんて恥ずかしい、などと青臭いことを云っていては、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)するこの世界で自分の道を切り開いていくことなんか出来ません。
どうお世辞を云ってやろうかという意識をもって相手を観察してごらんなさい。彼に欠けているのは何なのか。彼は一体何に得意を感じ、何に不安を感じているのか。彼は、自分のもっとも際立ったところを褒められると喜ぶタイプか、あるいは自信のないところを褒めてもらいたいタイプか。どんなに落ち着き払った、浮ついたところのない大人でも、その一点で褒められると有頂天になってしまうというところがあるものです。
そこをじっくりと凝視して、作戦を立てることは、相手の歓心を買うというメリットだけではなく、非常に具体的な人間観察の機会にもなるのです。
お世辞というのは、かように面白いものなのです。