日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~ 日本陸軍の創始者・大村益次郎を襲撃した男
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~【神代直人】
軍制改革への反発
しかし、後に実施されるこれらの近代的な軍制改革を建白(けんぱく=政府や上役に申し立てること)した大村は、江戸時代の軍制を保持しようとする士族(元武士)たちの大きな反発を受けてしまいます。
その士族の代表が神代でした。尊王攘夷を掲げる神代にとって、天皇を蔑ろにして外国に媚びたように見える政策は断じて許すことができなかったのです。神代は「奸賊(かんぞく)」大村益次郎を討つために暗殺を企て、自分と同じ志を持つ者を8人集めました。
その同志というのが、神代と同じく元長州藩士だった「団伸次郎」と「太田光太郎」、久保田藩士の「金輪五郎(かなわ・ごろう)」、白河藩士の「伊藤源助」、三河吉田藩士の「宮和田進」、越後国府居之隊士の「五十嵐伊織」、信州伊那郡の名なご古くま熊村郷士の「関島金一郎」の7人でした。
「全ては日本国のため!」
そう信じて疑わなかった刺客たちは、その時を待ったのでした。
そして、時は明治2年(1869年)9月4日を迎えますーー。
この前の月に京都に到着していた大村は、伏見の練兵場や宇治の弾薬庫の建設地の視察を行った後、大阪に赴き、大阪城内の軍事施設や天保山(てんぽうざん)の海軍基地を視察しました。視察を終えた大村は、9月3日に京都に戻り、宿舎で使用していた京都三条の木屋町の旅館に入りました。
大村が借りた旅館は、別館となっていたものを借り切っていたものだそうで、京都特有の縦長の建物でした。東西に延びた造りになっており、東側は鴨川に面し、西側に玄関が設けられていました。玄関を入ると台所が左手にあり、その先には6畳の部屋と8畳の部屋が連なり、階段を上ると4畳半の部屋がありました。
大村は、部下である安達幸之助(長州藩出身の伏見兵学寮の英学教師)と静間彦太郎(長州藩の大隊司令)の2人と奥の4畳半の座敷で、好物の冷奴をつまみに、ちびちびと酒を酌み交わしていました。鴨川に面した座敷での小宴は、外からよく見えたことでしょう。
大村たち3人とは別に、大村の従者だった山田善之助と、大村の部下の吉富作之助(兵部省の作事取締)がいました。2人は大村たちとは別の部屋にいたといいます。
3手に分かれる作戦
大村が旅館に戻ったという情報を聞きつけた神代たちは、大村を暗殺すべく9月4日の暮六ツ(午後6時)頃に旅館に駆け付けました。神代たちは刺客を3つの組に分けました。
第2組(玄関から後陣で襲撃) 伊藤・太田・宮和田
第3組(裏口に回り込む) 神代・五十嵐・関島
第1組は先駆けとして第2組と共に玄関から襲撃を行い、神代たちがいる第3組は裏手に回って旅館から逃れる大村たちを迎え討つ作戦でした。
まずは第1組の2人が玄関に入り、団が「萩原俊蔵(秋蔵とも)」という偽名の手札(名刺)を渡して、山田善之助に取り次ぎを頼みました。
団「大村先生にお目にかかりたい。長州藩の者で、かねてより先生をよく存じ上げておる。御取り次ぎを願いたい」
山田はその旨を大村に伝えると、
大村「もはや夜分だから、公用ならば明日役所へ来てくれ、私用ならば明後日にしてくれ」
と答えました。山田はそれを伝えると、刺客2人はこう懇願しました。
団・金輪「いや、ぜひ今晩、御面談いたしたく、わざわざ推参(すいさん)いたした。なにとぞ、今一度その旨、御取り次ぎください」
そして、山田がやむなく大村の許(もと)へ再び向かおうと刺客2人に背中を向けた瞬間でした。団と金輪はおもむろに抜刀して、山田の右肩を斬り下ろしました。
金輪「大村は国賊であるから討ち果たす! じゃまするなら家来も討ち果たすぞ!」
金輪はそう叫びつつ刀を振り回したといいます。不意の一撃を受けた山田は即死し、それを合図に刺客たちは大村がいる奥の座敷に迫りました。