日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~ 日本陸軍の創始者・大村益次郎を襲撃した男
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~【神代直人】
2ヶ月後に果たされた暗殺計画
さて、刺客の一人の宮和田は襲撃時に深手を負って亡くなり(逃走中に斬首を願い出て五十嵐が介錯したとも)、実行犯となった6人は神代を除いて、9月中に次々と捕縛されました。そして、この年の12月29日に京都の粟田口(あわたぐち)の刑場で斬首の上、梟首(きょうしゅ=斬首した罪人の首を木にかけてさらすこと)の刑に処せられました。
首謀者の神代は、なかなか捕縛されませんでしたが、6人の実行犯よりも先に亡くなっています。
神代は京都から逃れ、豊後の姫島(大分県姫島村)に潜んだ後に、長州の山口へ戻った際に捕縛の手に掛かりました。その際に、捕縛を良しとしなかった神代は切腹を試みたそうです。割腹(かっぷく)したために先が長くないと捕吏(ほり)に判断され、その場で神代は斬首されたといいます。
また、別の説では、10月12日に山口の揚り屋(留置所)に収監されて取り調べが行われた後、10月20日に斬首が決定して、あまり日を置かないうちに刑が執行されたと言われています。長州藩は藩内にまだ潜んでいた過激な尊王攘夷派の者たちを厳しく取り締まっていくということを示すためにも、神代を長州藩で断罪に処して見せしめとすることに拘っていたといいます。
さて一方で、重傷を負った大村も、神代の死から約2週間後の11月5日に亡くなっています。死因は敗血症(はいけつしょう=感染が原因の臓器障害)でした。大村は襲撃時に浴槽に潜みましたが、この時、浴槽には使用した後の汚れた水が入っていたため、右膝の傷口から菌が入って敗血症となってしまったのです。
蘭医のボードウィンによる右大腿部の切断手術が行われたものの、勅許(ちょっきょ)を得ることに手間取ったため(要人の手術は勅許が必要だった)、高熱を発して亡くなってしまいました。享年46でした。
こうして、神代の暗殺計画は襲撃時には失敗したものの、それからおよそ2ヶ月後に達成されたのでした。
日本で初めての西洋式銅像
明治26年(1893年)、戊辰戦争で亡くなった方たちを祀(まつ)るための「東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)」の建立に大村が貢献したことから、明治26年(1893年)に日本初の西洋式銅像として大村の銅像が建てられました。東京招魂社は明治12年(1879年)に「靖国(やすくに)神社」と改称されて現在に至り、大村の銅像も建設当時のまま残されています。
襲撃当時のものを残すものはほとんど残されていませんが、現場となった跡地の近くには「大村益次郎卿遭難之碑」が建てられています。
また、大村の襲撃事件から遡(さかのぼ)ること5年。ほぼ同じ場所で「人斬り彦斎」こと河上彦斎によって、松代藩の兵学者・佐久間象山が暗殺されました。
そのため大村の遭難の碑の隣には「佐久間象山遭難之碑」が建てられています。
一方、斬首された神代の亡き骸は、ひとまず山口の地に埋葬されました。その後、京都で斬首された他の6名と共に梟首されると決まったものの、理由は定かではありませんが、神代の首が京都に送られることは結局ありませんでした。そして、神代の遺骸はそのまま捨て置かれ、埋葬された場所や墓所は今も定かではありません。