日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~ 関ヶ原で徳川四天王・井伊直政を狙撃した男
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~【柏木源藤】
窮地を脱した島津隊
さて、源藤によって直政が狙撃されたことで井伊隊は追撃を断念することになりました。
それに加え、義弘の甥の島津豊久の奮戦(烏頭坂にて討ち死に)もあり、島津義弘は辛(かろ)うじて窮地(きゅうち)を脱することができたのです。
戦場で散り散りになった島津隊は、薩摩に戻った時には、わずか80数人になっていたといいます。これは80数人以外の者がみんな討ち死にしたというわけではなく、生き残ったものの義弘一団とはぐれた者も多く、義弘たちとは別に薩摩に戻ってきています。
義弘にずっと同行できたかは不明ですが、源藤も無事に薩摩に帰ってきた者の一人でした。
その後、島津家はこの退き口で特に戦功があった5人を「小返しの五本鑓(ごほんやり)」と称して讃えています。
その中の一人に、源藤の主君である川上忠兄が名を連ねています。これは忠兄自身の活躍もあったでしょうが、源藤の狙撃と名乗りがあってのことではないかと思われます。
一方で源藤は、西軍についた責任を取って隠居をしていた義弘が住んでいた加治木(鹿児島県加治木町)に移り住みました。これは撤退戦の手柄が評価されたためかもしれません。
直政の死を哀しんだ源藤
しかし、その後の源藤には、なぜか不遇の人生が待っていました。『本藩人物誌』(鹿児島県史料刊行委員会著、鹿児島県立図書館)には、
「逼迫(ひっぱく)して町人にまかりなり、子孫断絶いたし候」(生活が困窮して町人となり、子孫は断絶した)
と記されています。
井伊直政を狙撃して、島津義弘の撤退戦を成功させた源藤がなぜ不遇だったのか。その理由とも考えられる逸話が残されています。
直政は、源藤によって受けた銃創が原因で、「関ヶ原の戦い」から約1年半後に亡くなりました。源藤はこの死を哀しみ、僧侶の恰好(かっこう)で修行の旅に出てしまったのです。
なぜそれほどまでに直政の死を悼いたんだのかは不明なのですが、1つ私の想像があります。
実は直政は戦後に、なんと自分を狙撃した仇敵であるはずの島津家を存続させるために奔走しているのです。
徳川家との和睦の仲介役となって交渉を進めて、島津家の領地である薩摩・大隅(おおすみ)・日向(ひゅうが)の三国の本領安堵(ほんりょうあんど)を実現させようとしました。撃たれたことなど全く恨まず、むしろ島津の退き口を絶賛していたといいます。
しかし、直政は島津家の本領安堵の直前に、銃創が原因で病死してしまいました。
源藤は島津家のために尽くしてくれた直政の死を受けて、戦場での出来事とはいえ、自分の行いを悔やんで悲しみ、武士に嫌気が差したのではないでしょうか。
この逸話が載る『旧南林寺由緒墓誌』(鹿児島市編、同市刊)には、源藤の最期についてこう記されています。
「弔死(ちゅうし)の志をもって、墨染の法衣を身にまとい、巡国修行に郷関を出(いで)しが、また帰らず、その終焉の地、果して何処(いずこ)なるか、勇士の末路、憐(あわ)れにもまた遺憾なり」
(井伊直政の死を弔うために法衣をまとって修行の旅に出て、故郷に帰らず、その終焉の地はどこなのか分からない。勇士の最期は憐れで残念である)
鹿児島市にある「南林寺由緒墓地」には、「武山丈心居士(ぶさんじょうしんこじ)」と刻まれた源藤の墓が静かに立ち、「尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)」には源藤が直政を狙撃した時に使用したと伝わる火縄銃が現存しています。