尾崎紅葉が人気連載小説の舞台として描いた畑下温泉
名作の生まれた宿で、文豪の素顔に迫る。①【尾崎紅葉『続続金色夜叉』】
箒川(“はうきがわ”)の美しい清流が主人公の荒んだ心を癒した
尾崎紅葉の小説『金色夜叉』は明治30年(1897)、読売新聞に連載されると瞬く間に人気となり舞台化、映画化された。
貧乏学生の間貫一(はざまかんいち)が熱海の海岸で許婚(いいなずけ)・お宮を足蹴にして、《宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから》と男泣きする場面はあまりにも有名だ。
ところが、『文豪が愛し、名作が生まれた温泉宿』(祥伝社新書)の著者、福田国士さんによれば、熱海温泉ではゆかりの宿が特定できなかったという。だが、作中にはもうひとつの温泉が登場する。栃木県・塩原温泉郷の畑下温泉だ。
《清琴楼と呼べるは、南に方あたりて箒川の緩く廻れる磧(かわら)に臨み、俯しては、水石の粼々(りんりん)たるを弄び、仰げば西に、富士、喜十六の翠巒(すいらん)と対して、清風座に満ち、袖の沢を落来る流は、二十丈の絶壁に懸りて、素縑(ねりぎぬ)を垂れたる如き吉井滝あり。》(『続続金色夜叉』)
箒川が織りなす渓谷美は、心に屈託を抱える貫一を癒し、心中を図る若い男女を助けて人間らしい心を取り戻させる。貫一の心境が変化する、重要な場面の舞台だ。
その畑下温泉を紅葉が訪れたのは、連載開始から2年後。生来病弱な紅葉は、療養を兼ねて畑下温泉の佐野屋という旅館に約1カ月間逗留した。当時は、箒川沿いに木造3階建ての本館のみがあった。「自然が豊かで川のせせらぎが聞こえる、風情のある温泉宿です。執筆するにはよい環境だったのでしょう」と福田さん。
当初、佐野屋では客が尾崎紅葉とは気が付かれなかった。3年後、読売新聞の連載に登場した清琴楼があまりに似ていることから、佐野屋の人たちに「あの時に長逗留していた客が紅葉だ」と知られるようになったという。
佐野屋は後に遺族の承諾を得て、屋号を清琴楼に変えた。紅葉が泊まった「紅葉の間」は現存し、直筆の書などが展示されている。
通俗小説としての『金色夜叉』が有名なあまり、文学史上における紅葉の功績は見過ごされがちだ。ヨーロッパ近代文学を学んで翻案小説を書き、『多情多恨』では言文一致体で写実主義を実践。しかし、『金色夜叉』では一転、雅俗折衷の流麗な文体で書いた。37歳の若さで急逝したため、本作は未完に終わったが、生きていれば、紅葉文学と文体はどこに帰結したのか。改めて、畑下温泉を描写する名文から、紅葉文学を見直してみたい。
〈雑誌『一個人』2018年4月号より構成〉