日本史の未遂犯 ~明治新政府の重鎮・岩倉具視を襲撃した男~
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~スピンオフ【武市熊吉】
9人で岩倉具視を待ち構える
9人が襲撃現場として選んだのは、赤坂喰違でした。
ここはかつて江戸城の三十六見附(江戸城の主要な36の城門)の1つである「喰違門(見附)」が築かれていました。門の跡には土塁が残り、喰違門に向かう土橋の両側には深い水堀が巡らされていました。明治に入ってから整備はされておらず、周辺には人の背丈以上に草木が生い茂り、人の通りも少なかったため、襲撃をするにはこれ以上ない場所でした。
武市たちは、それぞれ草木に身を隠して、その時が来るのを待ちました。
午後7時頃。
山崎則雄と中山泰道が、仮皇居より数人の家来を連れて、紀之国坂から四ツ谷の方に向かう人力車の姿を目撃します。
「岩倉具視には、これなき哉(岩倉具視ではないだろうか)」
そう思った2人は、その人力車の跡を追い掛けました。
それから数十分後の午後8時前。
赤坂喰違に残った武市たちは、仮皇居からは2頭の馬が曳く馬車の姿を目にします。馬丁(ばてい)が馬の口を引きながら、馬蹄を響かせ、徐々に近づいてきます。7人はこの馬車には、霞ヶ関の自宅に戻る岩倉具視が乗っているということを確信しました。
仮皇居から外堀に挟まれた土橋を渡って、武市たちが潜む喰違門跡に向かう馬車。その距離、約100m。武市は息を殺し、馬車が間合いに入ってくる時を待ちます。
そして、馬車が土塁に差し掛かったその時―――。
「国賊!」
武市たちが一斉に馬車に襲い掛かりました。
まず中西茂樹が馬丁を斬り、それに続いて岩田正彦が馬車の後ろより一刀を突き刺しました。すると、馬車からは何者かが転がり落ちました。その者こそ、岩倉具視でした。
その背後から一刀を浴びせようとしたもの、その刀は岩倉具視を捉えきることは出来ません。
一方で、傷を負った岩倉具視は窮地を脱するために捨て身の策に出ます。なんと、水堀に身を投げたのです。堀の高さは10m以上あり、水堀とは言え転がる最中に当たりどころが悪ければ大怪我は免れません。さらにこの日は1月の中旬ということで冷え込み、冷水となった水堀に傷を負った身で飛び込むことも大変危険でした。
岩倉具視が水堀に身を投げた時、そこのことを知らない武市は、姦賊を討ち漏らしてなるものかと下駄が脱げるほどの勢いで馬車に刀を突き刺します。しかし、車内には毛布があるだけで人影はありませんでした。
焦る武市たちは、岩田正彦から、岩倉具視が水堀に身を逃げ落ちたことを聞き、周囲の草木を薙ぎ、たまたま通りかかった通行人の僧侶とその娘から提灯を奪い取り、水堀にかざして捜索します。
「どこへいったろう」「残念じゃ」
そう囁き合いながら探し続けたものの、ついに岩倉具視は発見できませんでした。
「彼(岩倉具視)、既に死せり」
武市たちは自分たちに言い聞かせるように一笑しました。
岩倉具視とは関係ない人力車を追跡していた山崎則雄と中山泰道も戻ってきて合流し、周囲に人が集まってきたこともあり、9人は事前に決めていた暗号(内容は不明)を唱え合って引き揚げました。
姦賊を討つ快挙を成し遂げた9人は、成功を祝して宴会を開き、大いに飲んで騒いで、長夜の眠りに就きました。
しかし、岩倉具視は生きていました。
水中よりわずかに頭を出して周囲を窺い、武市たちが去ると堀端に上がって救出されました。傷口は右腰に切り傷、右肩に刺し傷などがあったもののどれも浅く、命に別状はありませんでした。ただ、真冬に長い時間、冷水に浸かったために体温が下がり、一時は危ない容態となりましたが、すぐに回復をしています。
翌日に岩倉具視が生きているということを新聞で知った武市たちは、悲憤に天を仰いで嘆息したといいます。