巨大城郭へと発展していった笠間城
外川淳の「城の搦め手」第56回
笠間城は、江戸時代の大名の居城として存続しており、それなりの知名度を誇る。天守郭には、関東では珍しい石垣が残されており、東国の城郭ファンであれば、一度は訪れたことのある人も少なくないメジャーな城といえる。
東日本大震災によって一部が崩壊。現在は崩落した石の背後に栗石(排水をよくするための小石)が露出した状態となっている。笠間城は、山城に区分されるものの、山腹に位置する的場丸までは中型バスでも乗り入れることが可能なため、本丸や山頂の天守郭まで到達することは、そんなに困難ではない。
私自身も過去に2度ほど笠間城を訪れており、だいだいの見所は押さえていたと思っていたのだが、『中世城郭研究第22号』掲載の三島正之氏作成の縄張り図を目にしたところ、巨大城郭のほんの一部しか見ていないことを思い知らされた。
笠間城の基本構造は、天守郭のある佐白山を頂点として階段状に郭が配置されている。地形的には、佐白山以外にも、3か所の小山が寄り添うように存在するのだが、そのすべてに対し、出城としての土木工事が加えられていることが三島氏作成の縄張り図において表現されていたのだ。今回、笠間城を攻めてみたところ、当然のことながら、三島氏の図面通り、笠間城が巨大城郭であることを認識できた。
戦国時代の笠間城主の笠間氏は、宇都宮一族であったことから、基本的には宇都宮氏の支配下にあった。
笠間は常陸であるため、佐竹氏の勢力範囲として表現したが、笠間周辺は、宇都宮氏の勢力圏として薄緑で彩色すべきだった。天正9年(1581)、笠間氏は益子城主の益子氏と抗争。5年後に佐竹氏の調停によって和睦が結ばれるまで、笠間城周辺では紛争が繰り返されており、このころ、笠間城は巨大城郭へと発展したと思われる(次回へ続く)。