本邦初の“缶詰め”によって誕生した、小林秀雄による批評文学の傑作
名作の生まれた宿で、文豪の素顔に迫る。③【小林秀雄『ゴッホの手紙』】
友人とゴルフ、家族と静養
支配人とも交流した常宿
小林秀雄が初めて神奈川県・奥湯河原温泉の宿、加満田を訪れたのは、昭和22年(1947)の晩秋だった。
仕掛け人は宇野千代である。当時はファッション雑誌『スタイル』を戦後復活させて大当たりをとった、編集者だった。宇野はその儲けによって、純文学雑誌『文體(ぶんたい)』を復活させようと考えた。そこで、小林を加満田に閉じ込めて執筆に専念させた。これが、本邦初の作家の缶詰めだったという。
当時の小林はすでに文芸評論家として確固たる地位を築いていた。大学を卒業した翌年に『改造』の懸賞文芸評論に『様々なる意匠』が2位当選。戦前は『私小説論』『ドストエフスキイの生活』など、戦後には代表作の『無常といふ事』を発表した。文芸批評にとどまらず、音楽、美術、歴史など幅広い分野への文明批評を展開した、初めての批評家といってよい。
加満田で小林は、宇野の期待に応えて『ゴッホの手紙』を書き上げる。この缶詰めをきっかけに、小林は加満田を常宿にするようになった。後年には『モオツァルト』も、この旅館で書いている。
その後は執筆の時以外にも滞在するようになった。たとえば、趣味のゴルフだ。昭和37年(1962)から毎年、年末年始はゴルフと越年の集まりを行った。小林と作家の今日出海(こんひでみ)や加満田の当主ら5人がメンバー。水上勉が加わり、舞踊家の吾妻徳穂(あづまとくほ)、装幀家・評論家の青山二郎らも顔を出した。昼はゴルフ、夜は談論風発の楽しい宴が開かれ、妻や子も合流て、三が日まで過ごした。
加満田は奥湯河原の静かな地にあり、純和風の落ち着いた雰囲気と親身なもてなしが、多くの著名人に愛されてきた。小林とは20年余りの付き合いだったという元支配人から、福田さんはこんな話を聞いている。
「健康に気を付けていろいろな薬を飲んでいたものの、大のお酒好きで、『夜の酒がまずくなる』と午後からは水分を取らなかったそうです。そうでなければ膀胱癌で命を落とすことはなかったかも…とおっしゃっていました」。
文章には厳しかった小林も、加満田では素の自分をさらけ出すことができた。文士と幸せな関係を築いた常宿だったといえる。
〈雑誌『一個人』2018年4月号より構成〉