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本田宗一郎が「最後に嘲笑されるバカ者」と喝破した人間とは

【連載】「あの名言の裏側」 第1回 本田宗一郎編(3/4)逆境を突破する力 人のことを笑っていて自分は何もしない人間は最悪だ

坐ったり寝転んだりしている人間が、
ケガをしたりコブをつくったりする
人間をみて嘲笑するようなことがある。
そういう連中は、最後に嘲笑される
ことを知らぬバカ者だ 
──本田宗一郎

本田技研工業(ホンダ)の創業者である、本田宗一郎氏<1906(明治39)年~ 1991(平成3)年>。明治、大正、昭和、平成という4つの時代を生き抜き、日本の発展に大きく貢献した偉大な経営者のひとり。“生涯、一技術者”の姿勢を貫きとおした、人情肌で自由奔放な、進取の気質にとんだ熱血漢だが、ときには、部下にパワハラまがいの鉄拳制裁も辞さなかった。(写真/時事)
 

ホンダは国家から

つま弾きにされかけていた…

 現在、本田技研工業は二輪車や四輪車だけに留まらず、ASIMOに代表されるロボット技術の研究開発や、小型ジェット機の開発・製造など、さまざまな領域の機械工業を手がける世界的メーカーとして存在感を放っています。

 本田宗一郎氏が本田技研工業の前身となる本田技術研究所をスタートさせたのは、終戦から間もない1946年(昭和21年)のこと。程なく2サイクルの小型エンジン、通称“エントツエンジン”を補助動力として搭載した自転車(「バタバタ」と呼ばれる)を発表し、世間の耳目を集めるようになります。1955年(昭和30年)には二輪車の生産台数日本一を達成し、1958年(昭和33年)には世界的なベストセラーとなる(後に世界最多生産台数の二輪車、輸送用機器となる)「スーパーカブ」のファーストモデルを発表。“二輪車のホンダ”として、存在感を高めていきました。

 そして1962年(昭和37年)、ホンダは満を持して、四輪車の開発・製造への進出を表明します。四輪車開発は、本田氏の積年の夢のひとつ。しかしその一方で、大きな障害が立ちはだかっていたのです。

 1961年(昭和36年)、通産省(当時)は貿易自由化をふまえて、自動車産業における国際競争力を効率的に高めることなどを目的に、自動車行政の基本方針としてある政策を示します。メーカーのグループ化構想です。

 具体的には、自動車メーカーを3つのグループに分類──①量産車グループ=トヨタ、日産、マツダ/②特殊車(ディーゼル車、スポーツカーなど)グループ=プリンス、いすゞ、日野/③軽自動車グループ=富士重工、マツダといった陣容でグループ分けし、さらに新規参入については通産省の許可制にするという、極めて産業統制のニュアンスが色濃い政策でした。既存メーカーを集約することで性能向上や量産体制の早期確立を目指し、新規参入をコントロールすることで過当競争による消耗を抑えるという目的が謳われたものの、本田氏はこれに「新規参入を認めないとは何事だ。役所にそんな権限はない!」と猛反発。法案成立までに四輪車の生産実績をつくっておかなければ、四輪車事業への参入が認められないわけですから、これは死活問題です。

 そこで本田氏は1962年1月にスポーツカー制作の指示を出し、鈴鹿サーキットのお披露目がある同年6月までに完成させるよう命じます。若いスタッフを中心に、関係者は不眠不休で尽力し、お披露目前夜、どうにか完成まで漕ぎ着けたのです。なお、件のグループ分けですが、結果的には、トヨタと日産を除くほぼすべてのメーカーから激しい反対にあい、採用は見送られることになりました。

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漆原 直行

うるしばらなおゆき




1972年東京都生まれ。編集者・記者、ビジネス書ウォッチャー。大学在学中より若手サラリーマン向け週刊誌、情報誌などでライター業に従事。ビジネス誌やパソコン誌などの編集部を経て、現在はフリーランス。書籍の構成、ビジネスコミックのシナリオなども手がける。著書に『ビジネス書を読んでもデキる人にはなれない』、『読書で賢く生きる。』(山本一郎氏、中川淳一郎氏と共著)、『COMIX 家族でできる 7つの習慣』(シナリオ担当。伊原直司名義)ほか。

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