もしもあなたが真実を愛するならば、まず何よりも虚偽に通じなければならない【福田和也】
福田和也の対話術
「会話において、噓とは何か、真実とは何か、ということ自体がきわめて難しい。それが解れば、対話術について免許皆伝といってもいいくらいです」と語るのは、このほど初選集『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』を上梓した福田和也氏。噓もまた、対話において、きわめて大きな要素になる、お世辞も悪口も、噓の助けを借りなければ魅力的にはならない、と。この会話における不透明性を弁(わきま)えることが、またその覚悟と活力が、現世を生きるうえでいかに重要かをさらに深堀りして語る。つまり、「虚偽の本質」に通じること。これこそが「大人の対話術」の第一歩だともいえるのだ。
■自己をゴマカスというか、あしらいが必要になるとき
虚偽が虚偽として、真実が真実として伝達されない、受け取られない不透明な世界を生きる、この覚悟と活力が現世を生きるための、もっとも重要な要素である、ということを申しました。
みなさんは、きっと旺盛に現世を生き抜く勇気を、おもちのことだと思います。しかしながら、虚偽と真実をめぐる綾は現世において常に相対的であるがために、時に気が滅入り、勇気が萎(な)える想いを味わうことがあるのも当然のことです。このような場合に、ただ元気を出せ、などと怒鳴るのはあまり知的キャパシティのないJ-POPのシンガーか、体育教師のようになってしまいます。
勇気を保持し続けるには、当然のことながら、やはり何らかのスタイルと知恵が必要です。無論知恵やスタイルは、多種多様なものがありますけれども、いずれにしろ、真偽が交錯する場面で大事なのは、笑いであり、ユーモアです。
笑いというと、ゴマカシのためであるかと思われるかもしれません。しかしゴマカシというのは、なかなか大事なことなのです。自分を欺(あざむ)くためのゴマカシは逃避にすぎませんが、致命的な齟齬(そご)を、直視するものに変えるためには、多少、自己をゴマカスというか、あしらいが必要になるのです。
こうしたゴマカシというか、より広範なダマシの技術が、私の云うところの「韜晦(とうかい)」というものです。「韜晦」という言葉に、みなさんはあまりピンとこないかもしれません。横文字を使って申し訳ありませんが、私はフランス語でいうミスティフィカシオンという言葉の訳語として把握しています。
ミスティフィカシオンというのは、19世紀中葉のフランスの詩人たち、ボードレールとか、ペトリュス・ボレルといった連中が好んで用いた手法というか、生活作法ですね。
彼らは、いわゆるダンディといった洒落者たちの嚆矢(こうし)というべき人々で、その生活、服装に独自のスタイルをもちこんだことで高名です。
彼等のダンディぶりというのは、例えば博覧強記で知られたボードレールの自宅に行くと、本棚などなくて、ただ聖書が一冊だけテーブルの上に置いてある、といった具合です。あるいは、ダンディの「カリスマ」といわれて、各国の王室にすら崇拝者をもっていたボー・ブランメルは、いつでも黒の地味な背広に、粗く結んだ白いリボンをネクタイ代わりにしていたといいますが、ブランメルはそのネクタイの結び目が気に入るまで結び直すので、毎日数十本のリボンを無駄にした、と云われています。
こうなると、おしゃれといった水準ではなく、むしろかなり強烈な匂い、あるいは臭気のする自己演出の領域に入ってきます。とかく、こうした演出が強ければ強いほど、今時の言葉でいえば「キャラ立ち」を明確に行えば行うほど、自分の言葉を相手がいかに受け取るか、あるいは相手が自分にどのようなつもりで話しかけているかが、理解しやすくなります。相手の自分にたいする理解や把握が推測しやすいのですから、そのような効果があるのは当然のことですね。
けれども私が云う演出とは、キャラクターを成立させる、ということではありません。むしろ今日の文脈では、キャラクターを成立させるというのは、よくあるタイプに自分を当てはめること、集団のなかでの居場所を求めるといった態のもので、その内実はきわめて小心かつ卑小なものになりがちです。
私が申しあげている演出というのは、そういう文脈とは逆の、もっと攻撃的なものです。容易に相手の納得に安住するものではなく。自他ともに緊張を強いるような形姿を作り出すものでなくてはなりません。そのような緊張がないのならば、本当に実のある解釈上のやりとりなどあり得ないからです。