もしもあなたが真実を愛するならば、まず何よりも虚偽に通じなければならない【福田和也】
福田和也の対話術
いずれにしろ、大事なのは、直接的な反応をしないことです。自分が抱いた感情や意見を相手に伝えるには、思ったままをそのままに述べてはなりません。素朴さが、何らかの意味をもつと考えるのは、とても幼いことです。素朴な感想を、そのままに表明すれば、相手は間違いなくそれをあなたの意図と違ったように受け取ります。
素朴を、そのまま素朴さ、純朴さとして受け入れさせるためには、素朴だと相手に思われるようにふるまわなければいけないのです。
あなたが、善良な人であり、なおかつその善良さを他者から理解してもらいたいならば、あなたは善良そうに、善良に見えるようにふるまわなければなりません。その善良さの見かけもまた、きわめて俗っぽい善良さから、一見悪辣(あくらつ)な見かけの下にのぞく善良さ、といった手のこんだものまで多種多様に存在しています。
このように述べると、そんな作為をめぐらしてしまったら、善良さは、本来の善良さとは云えない、と思われるかもしれません。善良らしい演技をしたとたんに、その善良さの純朴さは失われてしまい、偽善になってしまうと思うかもしれません。
そういう意見は理解できますし、たしかに偽善は嫌悪するべきものです。偽善の匂いは、人をして強い不愉快の念を起こさせるものですし、知的にも不誠実な印象を与えます。しかし、もしあなたが、本当に善良ならば、なぜ善良らしくふるまうことに、抵抗を覚えるのですか。あなたの善良さは、かような演技や身振りに浸食されてしまうほどに、か弱く、小さいものなのですか。だとすれば、それは善良さなどではなくて、単なる自意識の迷いにすぎないのではありませんか。
自意識の迷いというのは、云いすぎのように思われるかもしれません。しかし、自分を善良だと思い込みたいだけのために、善良であるふりをする人たちが、少なからず存在するのです。というよりも、世の善良な人々、自分が善良だと思い込んでいる人たちは、そのほとんどが、別に善良でも何でもなく、ただ自意識を甘やかしたいがために、善良であるにすぎないのです。そしてときに、自分が善意と信じ込んでいるものを、無思慮に放出して、それが他人に迷惑をかけたり、あるいは拒まれたりすると、おおげさに傷ついて見せたりするのですから、始末に負えません。
韜晦を駆使するということは、自意識の素朴さを卒業するということです。自分のなかの善良さや悪意という資質を、客観的に眺め、時に繊細に、時に臆面もなく、状況にあわせて表現できる人間こそが、大人の名に、あるいは善良といった徳に値するのです。
韜晦は、ユーモアや皮肉を媒介としながら、けして真実が真実として伝わらない人間たちの世界で、自分の真意を相手に伝えるきわめて有効な手段です。エデンの東に住む人間たちにとって、素朴であること、純真であることは、そのままでは何も価値はありません。それは単なる傍(はた)迷惑な幼稚さにすぎないのです。いかなる真実も、虚偽の助けを得られなければ、真実として輝かないのが、人間たちの世界なのですから、もしもあなたが真実を愛するならば、まず何よりも虚偽に通じなければならないのです。
(『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』から本文一部抜粋)