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わが身を犠牲にして将兵の命を救う名誉の死

戦国武将の「切腹」の真実 第11回

日本の武士の自決方法として、古来から伝わる「切腹」。
もとは単なる自決の手段だったのが、なぜ「名誉の死」として尊ばれるようになったのか。
その謎を解く鍵は、華々しく散っていった武将たちの死に隠されていた。

 

秀吉はなぜ切腹にこだわったのか?

 清水宗治の切腹によって、備中高松城攻めには終止符が打たれた。宗治の最期は、1人の自殺を数万人もの人間が目撃するという、世界史上でもきわめて稀な出来事となった。

 ところで秀吉が宗治の切腹にこだわったのは、2つの理由があった。

 秀吉は、信長の死を毛利サイドには知らせずに交渉を進めていた。もしも、毛利サイドが開城後に信長の死を知れば、和議を破棄して備中高松城から撤退する羽柴勢を追撃する可能性も高い。だが、宗治が和議の証として切腹したにもかかわらず、毛利が和議を破棄すれば義に反する行為となるだろう。戦国乱世であれば、盟約や和議の破棄は日常茶飯事だが、感動的な切腹ショーが繰り広げられた直後、その死をふいにするような背反行為ができにくい状況が生じたのだ。

 また、三木城の別所長治、鳥取城の吉川経家と、秀吉が指揮する城攻めの中で、城主切腹城兵救命という流れが生まれつつあり、宗治の切腹はその集大成となりえた。事実、この切腹を受けて、「多くの生命を救うため切腹する」という行為は、武士の最高の名誉となったのだ。

 なお宗治の子孫は毛利家に家臣として仕えた。宗治の遺児景治(かげはる)は、天下人となった秀吉から大名に取り立てようと誘われたものの、毛利家から離れることはなかったという。

<次稿に続く>

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外川 淳

とがわ じゅん

1963年、神奈川県生まれ。早稲田大学日本史学科卒。歴史雑誌の編集者を経て、現在、歴史アナリスト。



戦国時代から幕末維新まで、軍事史を得意分野とする。



著書『秀吉 戦国城盗り物語』『しぶとい戦国武将伝』『完全制覇 戦国合戦史』『早分かり戦国史』など。



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