なぜあなたは「敬語の使い方」に鈍感でいられるのか。【福田和也】
福田和也の対話術
会話のなかでその人の無知、浅薄さが露呈しまうのが「敬語の使い方」である。初選集『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』(KKベストセラーズ)を上梓した文芸評論家・福田和也氏は、そのなかで「悪の対話術」と題し、武器になる敬語の使い方を指南している。たしかに、現代のようなマニュアル的な世界では、丁寧語が優先されるあまり、あらゆる名詞に「御」や「様」をつけてしまう、といったおかしな事態が起きている。また尊敬語と謙譲語の混用が日常茶飯事になっている例もあとをたたない。そこで福田氏は語る。「敬語は外国語のようなものだという意識をもって使うべきだ」と。果たしてその真意とは?
■丁寧な人ほど対人関係に抜け目がない
私の知っている京都のお料理屋さんは、大変意地悪というか、ほとんど人の悪口しか云わない。でも、その悪口がとても柔らかい京都弁で語られるので、耳に優しくなじんでしまう。私がある寿司屋で巧いシマアジを食べたと云うと、「そりゃよろしおすなぁ、あちらさんのシマアジはいい養殖物を使わはってるから、よく脂がのってコクがありますやろ」などと云う。要するに天然ではないとくさしているのですが、そういう悪口を婉曲(えんきょく)に柔らかく云う、その回りくどさにシビレます。
実際に、その言葉が与える感触とは別に、関西の方々であっても、この世知辛(せちがら)い世間にほかの人々と同様に生きているのですから、相応の打算計算があるのは当然です。ところが、表面的に当たりが柔らかいために、私のような東夷(あずまえびす)から、京都人は腹黒いなどといわれのない非難を受けます。
しかし、このような非難はそもそも認識が甘いところから来るものなのです。礼儀について先述しましたが、丁寧な人ほど、対人関係に意識的であり、抜け目がないのは当然なのです。そこのところが解っていないで、当たりが柔らかいのに腹は違う、などと甘えた苦情を云うことになる。
そうではなく、まったく逆に、隙(すき)のない姿勢を、きわめて優美な話し方に込めて実現していることに、敬意を抱くべきなのです。敬語とは、まさしくかように、きわめて高い洗練と悪の意識を盛り込むことが出来る器なのだと。
さて、それでは敬語の優美な、美的な側面をどのように演出するか、という点について考えていきましょう。
敬語は、ご存じの通り三つに分類されます。謙譲語、尊敬語、丁寧語ですね。
この中で、まず用心しなければならないのは、丁寧語です。
というのも、マニュアル的な世界においては、何よりも丁寧語が優先されるのです。そのためにあらゆる名詞に「御」や「様」をつけてしまう、といったおかしな事態が起きています。
これは敬語の、典型的な誤用というよりも、むしろ無知、浅薄さを露呈するものだと云えるでしょう。むしろ、名詞の丁寧語については、なるべく使わない方が好ましいとすら、私は思っています。
もちろん、文脈からして、まったく丁寧語を使わないと齟齬(そご)を生じる場合もありますが、基本的には名詞の丁寧語を使わない、という姿勢がいいと思います。
それに尊敬語、謙譲語と組み合わせて使う場合、丁寧語を使わない方が引き締まって響きます。
「お電話いただけますでしょうか」よりも「電話いただけますでしょうか」の方が、私の耳には澄んで聞こえます。このことは、いわゆる文法云々(うんぬん)とはまったく関係ないのですが。
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[caption id="attachment_885462" align="alignnone" width="205"] 『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』(KKベストセラーズ)絶賛発売中。[/caption]
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総頁832頁の【完全保存版】
◎中瀬ゆかり氏(新潮社出版部部長)
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