なぜ政治家は顔で判断されるべきなのか?【中野剛志×適菜収】
「小林秀雄とは何か」中野剛志×適菜収 対談第2回
■「顔」と同じく「文体」もその人間を誤魔化せない
中野:俗っぽい話になりますけれども、自分が40過ぎぐらいからかな、それ以前からかもしれませんが、文体が非常に気になるようになりました。
適菜:それはよくわかります。イライラしてくる文章ってありますね。
中野:そう、癇に障るというのかな。最近、私どんどん文体過敏になっているんです。若い頃からその気はあったんですけど、例えば、朝日新聞の論説とかにいつも出てくるセリフで、「だがちょっと待って欲しい」って、あれにイラっとくる。「いかがだろうか」とかね。一番嫌いなのは「◎◎と思うのは私だけだろうか」という言い回し。私だけかどうかなんか関係ないだろう。正しいか間違ってるかの話をしている時に、お前だけかどうかなんか知ったことか、と。そういうインテリぶった書き方をされるとカチンとくる。あるいは、「◎◎と思うがどうだろうか」とかね、共感を求めたり、こっちに聞いてくるような言い回しが大嫌いですね。最近だと、「◎◎である疑義が濃厚である」を連発する科学者ぶった偉そうな文章。見るたびに吐きそうになる。
適菜:ははは。一般論ですが、疑似科学は反科学ではなくて、科学に寄り添い寄生するんです。
中野:ちょっと話がそれるけど、私の場合、そういう文体過敏になっちゃった元々の原因は、佐藤健志さんのお父上の教育のせいかもしれない。つまり恩師の佐藤誠三郎先生が、そういう誤魔化したようなもったいぶった書き方を嫌って、学生に絶対そういう書き方をするなと厳しく指導していたんですよ。
それもあるんですけども、この「いかがだろうか」とか「◎◎と思うのは私だけだろうか」とか「だがちょっと待って欲しい」といった書き方って、良心的なふりをしながら、批判されるリスクを回避しつつ、うまく人を丸め込もうとする嫌らしい意図を持ってるのが見え見えなんです。まあこれは私の好みの問題と言われちゃうとそうかもしれないけど、私は率直に書く人が好きだし、自分も率直に書くことを心がけていますね。
適菜:中野さんの文章はそうですね。昔、中野さんに言ったかもしれないけど、デュルケームの文体に似ている。もちろんフランス語と日本語をそのまま比較できませんが、具体的な事例で畳みかける感じが似てますよね。今回の『小林秀雄の政治学』も、そんな感じがしました。
中野:はい。畳みかけばかりやってます。これでもか、これでもか、と。
適菜:これまで小林について書かれた膨大な本の中では、中野さんの本は異質ですね。「文学」のにおい漂う必要以上に気負った本は多いけど、中野さんの本はストレート。
中野:おっしゃる通りです。私自身は、小林ほど切籠細工のように書くことができないので、小林はすごいなと思ってしまった。小林は、言葉をすごく恐ろしいものだと思っているわけです。ちょっと油断すると、言葉にこっちが操られて、分かった気になったり、自分を大きく見せようとしたり。言葉って、それができてしまうから。要するに自分に嘘がつけるから。言葉のそういうところが怖い。それを防ぐために私がやっているのは、とにかく率直に書くことです。
率直に書くってことを心がけていると、言葉に操られてぐだぐだだと分かってないことを分かったように書いてしまったり、人からよく見られようとする邪念にとらわれて自分を偽ったりとか、そういうことを避けられるわけです。
適菜:もったいぶった書き方はバカに見えますからね。そういうバカに限って、「小林秀雄の後継者」を自称していたり。
中野:そうなんです。恐ろしいことに、もったいぶって書くと、逆にバカに見えるんです。だけど、これも難しいんですけど、率直に書いてるつもりが、他人からは攻撃的に見えたり、自信たっぷりで傲慢に見えたりするらしいんですよ。これはね、しょうがないんですけども、やっぱりどうしてもそうなってしまう。その点で言うと、小林もバシッと言い切りますよね。小林も率直といえば率直で、非常に鋭い。ただ、やっぱり小林は言葉の達人で練ってるから、切籠細工で細かく切っているんだけれど。しかし、切ってる断面は非常に率直にまっすぐ切っていて、しかも、あちこちから多面的に切るから上手い。私はそこまでの語彙力がないですね。やっぱり小林は凄いなと思うんです。
繰り返しになりますけど、率直だけど細かく切ってる話と、もったいぶったレトリックでインテリぶってぐだぐだ書くものとは根本的に違う。
適菜:先ほども言いましたが、一部はだめだけど、全体がいいというのは考えにくいですよね。一部はへたくそなのに全体はいい絵とか、一部はくだらないけど全体としてはいい曲とか。これは批評や評論にも言えるのではないとかと思います。 最初の三行を読んで、だめなやつはだめみたいなところはやはりありますね。
中野:ありますね。だからね、恐ろしい話です。見た目で誤魔化せないということなのですよ。
恐ろしいことに、以前は電話とかで済ましてたのに、今では、ネット社会になって、ちょっとした連絡でも、メールとかテキストでやり取りするわけですよ。書き言葉がすごく優位になっていますよね。以前よりも書き言葉中心の文化になっている。すると、嫌な話ですが、つまんないメールのやり取りとかでも、イラ立っちゃうんですよね。文体の裏にある人間性に気づいてしまうから。文体の嫌らしさにイラついて、メールを全部読めないこともよくある。絵文字ですら、イラ立つ使い方と楽しくなる使い方があるぐらいですからね。
また、文体だけで、誰が書いた文章か分かってしまうようなところもあるじゃないですか。文体っていうのは学んで獲得するようなところもあるのかもしれないんですけれど、生まれつきの人間性みたいなものが出るとも言えるんじゃないですかね。
適菜:ネットの記事は最後に署名が入っていたりするじゃないですか。でも、最初の三行を読んだだけで髙橋洋一が書いたとわかることってありますよね。
中野:そうそう、最後まで読まなくても分かることありますね。やっぱり音楽なんかでもそうなんじゃないですか。小室哲哉が同じような曲ばっかつくっていたのと一緒でね。
適菜:あれはあれで逆にすごいですけどね。金太郎飴というか。文体が過剰で内容はなにもない。
中野:小林も書いてたし、私が引用したジョン・デューイも強調してましたけど、大事なのは、やっぱりリズムなんですよね。私、嬉しかったことがあって、ある批評家に「あなたの文章は、なんか律動があるね」と言われたことがあった。「律動は文学者にこそなきゃいけないのに、律動がない文学者はいっぱいいる。あなた文学者じゃないのに、なんか律動があるよ」とか言われて、「それは、そうかもな」と思った。文章のテンポとかって大事ですよね。適菜さんも非常に気を遣っていると思うけれど、改行や句読点の位置だけでも、中身の伝わり方も全然変わってきますからね。面白いものです。
適菜:気持ちの悪い音ってありますよね。発泡スチロールが擦れる音だったり。それと同じで、句読点や改行の問題もそうだし、同じ語尾が三つ重なると気持ちが悪いとか、生理的に感じるものはありますよね。つまり、文体こそが人間の生理であり、抽象的な概念ではないんですね。人間の生理から離れたものは信用できない。そこを突き詰めたのが小林だと思います。
中野:そういうことになりますね。
(続く)
著者紹介
中野 剛志(なかの たけし)
評論家
1971年、神奈川県生まれ。評論家。元京都大学大学院工学研究科准教授。専門は政治思想。96年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。01年に同大学院にて優等修士号、05年に博士号を取得。論文“Theorising Economic Nationalism”(Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に『日本思想史新論』(ちくま新書、山本七平賞奨励賞受賞)、『TPP亡国論』(集英社新書)、『日本の没落』(幻冬舎新書)、『日本経済学新論』(ちくま新書)、新刊に『小林秀雄の政治哲学』(文春新書)が絶賛発売中。『目からウロコが落ちる 奇跡の経済学教室【基礎知識編】』と『全国民が読んだら歴史が変わる 奇跡の経済教室【戦略編】』(KKベストセラーズ)が日本一わかりやすいMMTの最良教科書としてベストセラーに。
適菜 収(てきな・おさむ)
作家
1975年山梨県生まれ。作家。ニーチェの代表作『アンチクリスト』を現代語にした『キリスト教は邪教です!』、『ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体』、『ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒』、『ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒』、『小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか?」(以上、講談社+α新書)、『日本をダメにしたB層の研究』(講談社+α文庫)、『なぜ世界は不幸になったのか』(角川春樹事務所)、呉智英との共著『愚民文明の暴走』(講談社)、中野剛志・中野信子との共著『脳・戦争・ナショナリズム 近代的人間観の超克』(文春新書)、『安倍でもわかる政治思想入門』、清水忠史との共著『日本共産党政権奪取の条件』、『国賊論 安倍晋三と仲間たち』、『日本人は豚になる 三島由紀夫の予言』(以上、KKベストセラーズ)、『ナショナリズムを理解できないバカ』(小学館)など著書40冊以上。購読者参加型メルマガ「適菜収のメールマガジン」も始動。https://foomii.com/00171