日本で東京五輪を開催する価値がない、これだけの理由【平坂純一】
平坂純一「日本のハラスメント」
東京オリンピック開会に先立って、聖火リレーが灯った。良識ある日本人には鼻白むどころか、コロナ禍で日銭に苦労する時期、積極的な憤怒の思いもあろう。この「パンなきサーカス」は僕らに何をもたらすのだろうか。少なくとも純粋にスポーツを観て楽しもうという気分は、最早、僕らは持ち合わせていないのである。むしろ、五輪がこの国で行なわれていることに不快感がない訳ではない。
僕らのこの破滅的な興味の減退に対して、ある知的関心をそそる記事がある。オリンピックがギリシャのアテネで花開いた。そして、多神教の日本と共通するような牧歌性を伝える。
ストア派の禁欲主義はこの後の話。この記事にある「男性による全裸の短距離走を既婚女性が観覧を禁じられた」のは本当らしい。
一方で、この記事で語られていない歴史がある。それは「未婚女性は全裸のマラソン等の競技をガン見することが奨励された」という話がある。さて、それは何故でしょう? こんな問題、草野仁氏がこんな問題、出題する訳もないし、黒柳徹子氏も沈黙するだろう。答えは「子育てをする気を起こさせるため」であったというから驚きだ。共同体の維持とその結束が目的だったらしい。
スポーツとは何か。オランダの歴史家・ホイジンガはスポーツを「遊び」として捉え、「遊戯の文化」と定義した。あるいは、その語源であるラテン語の「deportare」が示す通り、de(外)へportare(運ぶ)であり、やはり、「遊興」や「娯楽」を意味する(西部邁氏が唱えた「外れた振る舞い」説は誤りである)。生活の外部ある、国際的に共有する娯楽大会が4年に一度あることに、特段の不満はないものである。
三島由紀夫は僕よりも真面目である。『三島由紀夫スポーツ論集』の中で、1964年の東京五輪のアスリートを取材して、彼らの生態に感銘を受けつつ「人と神の間にいる」と評した。ギリシャ的多神教に基づき肉体の美を尊び、また天皇を神聖化した三島らしいヨーロッパ的な解釈であろう。だが、神なき国である日本の人民にとっての「2021」はどうか。建前は「国際的なスポーツ大会の金字塔」であり「平和の祭典」であり「IOCとの政治的駆け引きの産物」でしかなく、このことは文化系の僕らには甚だ、欠伸を催すものである。そして、世間に水差す「ポリコレ・ボルシェヴィズム」がある。
まず、世人の間にある東京オリンピック2021に対する気分は二つある。
「経済回すためにも粛々とやればいいのでは?」と、「変異種のウイルスが有り得る中で五輪をやるべきではない」の二つの理について総合的で俯瞰的な見解は大人たちから出されていない。むしろIOCのゴリ押しで無観客の決行を強いられ、その不満を国外の機関や日本の親米政府に発するなら兎も角、この国では「グローバリスト・ポリコレ厨」は外圧を背景に、「戦後レジーム保守・脳筋オヤジ」に対するリンチ(私刑)を行なっている。例えば以下がある。
森喜朗前会長問題は顕著だった。ワザワザ知らされなければ一生関心を持つこともない、著しく公益を毀損する訳でもない、調子のいい老人の無駄口を僕らはマスコミに聞かされた。この件で得られたのは、学術委員会問題と予算委員会における菅首相の辣腕ぶりが掻き消されたことだけであり、よほど日本の公益を毀損した。世界の非難を浴びて五輪のトップの首が、何らの当事者性を欠いた無意味な「セクハラ」のレッテル貼りによって刎ねられたことは、東京で五輪を成功させたい意思からも離れるだろう。
この構図は「開会式問題」にも通じる。才能ある振付師の能力や、肥えた体型のタレントが、脳みそが筋肉で出来た電通の重役(自民党を「構造改革」のチンドン屋・小泉純一郎に自民党を売り渡した森に比べれば小粒だが)によって存在をある“一面的な見方”によって潰される。この件には傷ついた当事者がいるため、僕も義憤がない訳ではない。とはいえ、この大会前の玄人同士のイザコザの内幕を聞かされる庶民には、ポカンとする以外に答えがないのではないだろう。僕らの生活に関係がないからだ。