戦後76年の平和日本は、なぜひとりの「大隈重信」を生み出せなかったのか。【福田和也】
福田和也「乱世を生きる眼」
■国家の柱石となる人物をいかに作るか
鹿児島出身の作家の海音寺潮五郎は、当時の薩摩藩士が、死を軽く見る事は異常なほどだったと書いています。
島津の殿様が、大規模な巻き狩りを行った時、命令を下す前に鉄砲を撃った者がいたといいます。
発砲音のために獲物を逃がしたので、「勝手に発砲したものは、切腹申しつける」と殿様が命じると、次々に発砲する者が出た。
流石に激怒して、発砲した者らを引き立てて、「なぜ、余の命に背いた」と問うと、みな口々に「切腹が怖くて、撃たんと思われるのは名折れです」と答えたといいます。
ここまで来ると冗談じみていますが、殿様ももて余すほどの猪武者(いのししむしゃ)を、薩摩藩が泰平の間育て続けてきたことには、感嘆せざるをえません。
特段の宗教的な強制があるのでもないのに、不名誉よりも死を選ぶことについて、何の疑いももたない人材を輩出しつづけた事については、研究してみる価値があるのではないでしょうか。
陋屋(ろうおく)に、十人ほどの若者が集まって車座になり、点火した火縄銃を天井から吊し、ぐるぐる回す、という肝だめしも行われたといいます。まさしく命がけですが、そうまでして死を怖れない人間を作りだすという気風は、やはり得難いものです。
しかも、輩出したのは、猪武者ばかりではありません。
まぎれもない、明治日本の設計者である大久保利通をはじめとして、高橋是清と並ぶ近代日本随一の財政家である松方正義や、帝国海軍の実質的建設者である山本権兵衛ーー花街から女郎を誘拐して妻にしたといいますから、若い頃はかなりの乱暴者だったのでしょうがーーも、このくんずほぐれつから出てきたのです。
陸軍が長州、なかんずく奇兵隊の影響を強く受けているのにたいして、帝国海軍は、薩摩藩の気風を強く受け継いでいます。
その幹部を養成する海軍兵学校は、往時、日本で一番の難関校でした。
学業においても、体育においても、最優秀の一握りの学生しか、入学を許されない。
しかも、その学業、訓練は、厳しいといった水準を超えるものでした。
毎年、何人もが病気で退学するだけでなく、在学中死亡する学生も数多かった。
大戦前、兵学校で英語教師をしていたセシル・ブロックは、その回想のなかで、モデルである英国のダートマス海軍兵学校よりも遥かに厳しい教育を行っている、と記しています。
兵学校の仮借無い教育は、郷中の厳しさを受け継いだものなのでしょうか。
いずれにしろ、国家の柱石となる人物をいかに作るか、という意識において当時の日本が今とはかなり違う考え方を抱いていたことは確かでしょう。
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社会、国、人間関係、自分の将来に
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文藝評論家・福田和也の名エッセイ・批評を初選集! !
◆第一部「なぜ本を読むのか」
◆第二部「批評とは何か」
◆第三部「乱世を生きる」
総頁832頁の【完全保存版】
◎中瀬ゆかり氏(新潮社出版部部長)
「刃物のような批評眼、圧死するほどの知の埋蔵量。
彼の登場は文壇的“事件"であり、圧倒的“天才"かつ“天災"であった。
これほどの『知の怪物』に伴走できたことは編集者人生の誉れである。」
[caption id="attachment_852472" align="alignnone" width="300"] 『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』(KKベストセラーズ)が絶賛発売中。[/caption]