国際連盟脱退は日本の内政問題
シリーズ④満洲事変を正しく知って賢くなろう
■国際連盟脱退に外的要因は無い
満洲事変においては、三代の内閣が推移します。若槻礼次郎内閣(立憲民政党)、犬養毅内閣(立憲政友会)、斎藤実内閣(挙国一致内閣)です。歴史学の通説では、協調外交を旨とした幣原喜重郎外相を擁した若槻内閣がずるずると退陣に追い込まれ、一九三三(昭和八)年の国際連盟脱退に至る、とされます。
結果としてはその通りです。しかし、その間の動向を仔細に見ていくと、日単位、時間単位で政治的な押し合いへし合いがあることがわかります。
例えば、満洲事変発生後の一九三一(昭和六)年の十月八日、石原莞爾の指揮のもと、張学良軍閥が本拠地とした錦州を爆撃します。国際世論は最悪になりました。
幣原外相は陸軍首脳と話をつけ、お互いの妥協線を確認して、国際連盟の説得に当たります。ジュネーブは、関東軍を政府が統制できる状態であることを示さなければ話ができない、と言ってきました。政府は、発砲命令さえあればただちに攻撃を開始して錦州を占領するばかりになっていた関東軍を引き上げさせます。十一月二十九日のことです。
これで国際世論が持ち直します。日本政府によるこの軍部統制の実際を見て、国際連盟は、満洲の匪賊討伐権、つまり、「満洲でほとんどの軍事行動を行ってよい」という権利を認めようということになります。幣原外相は、見事に情勢をひっくり返しました。しかし、その報が届いた十二月十日の朝八時に政変が始まってしまいます。若槻内閣は総辞職し、英米に親しかった幣原も外相を離れます。
右のような事実は、「満洲事変は軍国主義勢力が押しまくった」という通説では、無視されます。しかし、時には分単位で見ていかなければ歴史を見たことにはならないことが大にしてあります。その一時間が、他の三十日より重要な場合があるのです。しかし、多くの近現代史家は、そのこともわかっているし、出来事の詳細を知っていながらも、ミクロな事は言ってもしかたがないということにして触れません。
結局、満洲事変は、日本の中の問題です。大日本帝国は東アジアの中では無敵の帝国ですから、国際連盟が何を言おうが、実は関係ありませんでした。すべては国内政治の失敗なのです。
『学校では教えられない 歴史講義 満洲事変 ~世界と日本の歴史を変えた二日間 』より抜粋
次回は、シリーズ⑤満州事変を甘く見てはならない。です。