閔妃暗殺事件の首謀者は誰か? 朝鮮の内情と日本との関係から捜査する |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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閔妃暗殺事件の首謀者は誰か? 朝鮮の内情と日本との関係から捜査する

あの歴史的事件の犯人を追う! 歴史警察 第3回

■日本が閔妃を暗殺しなければならない理由はあるか?

 明治15年(1882)、興宣大院君は閔氏一族に対して反乱を起こすが、朝鮮に出兵した宗主国の清によって拉致されてしまう。これにより、閔氏一族が政権に返り咲いたものの、朝鮮は清の影響下におかれることとなった。これを不服とする廷臣らは、日本軍の支援をえて王宮を襲撃し、閔氏一派の大臣らを殺害する。これを「甲申政変」という。
 このクーデターにより、日本は朝鮮の内政改革を断行し、近代的な内閣制度も整備された。しかし、朝鮮の宗主権を主張する清と対立することとなり、明治27年(1894)には日清戦争を引き起こすことになるのである。この日清戦争では、日本が勝利をおさめ、下関条約によって朝鮮は清からの独立を果たした。このとき、清と結んでいた興宣大院君は日本によって追放され、朝鮮の内政改革は日本によって進められていく。
 しかし、その後の三国干渉、すなわちフランス・ドイツ・ロシアが下関条約で日本が清から獲得した遼東半島の返還を求めると、閔氏一族は、ロシアと結ぼうとしていた。
 こうした状況のなかで、日清戦争時に朝鮮公使を務めていた井上馨が日本に帰国すると、明治28年(1895)、代わって三浦梧楼が朝鮮公使として赴任してくる。閔妃暗殺事件がおきたのは、この直後のことだった。そのため、三浦梧楼が事件の首謀者とみなされているのである。

 

 朝鮮がロシアと結ぶようになれば、日本の朝鮮における影響力は低下してしまう。朝鮮公使の三浦梧楼が、閔妃を暗殺することで、打開を図ろうとしたという考えも、そこから生まれている。ただ、閔妃は、帰国する井上馨にこう伝えていた。「あなたの尽力で興宣大院君が引退し、旧態に復すことができたのは幸いです。ただ、にわかに内閣制度を創設した結果、内閣が政治を専断し、高宗殿下が奏聞に従って裁可を与えているだけになっているのは問題でしょう」と。外交辞令も含まれているにせよ、閔妃は、興宣大院君を追放した日本の姿勢を評価していたことがわかる。ただ、日本が主導して創設された内閣制度によって、王権が弱まったことに苦言を呈しているだけだった。井上馨に代わって赴任してきた三浦梧楼とも、交渉を継続していくつもりだったに違いない。

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小和田 泰経

おわだ やすつね

1972年東京都生まれ。静岡英和学院大学講師。主な著書に『天空の城を行く』(平凡社)、『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』、『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(ともに新紀元社)他。


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