伊能忠敬は一流の経営者だった 多角経営で20年間で収入3.6倍、投資センスも
伊能忠敬の知られざる顔に迫る①
■経営の多角化によって20年間で総収入が3.6倍!
忠敬が伊能家を立て直したのは有名な話だが、そこには彼の優れた経営センスがあった。
「ただ、忠敬が婿養子に入った当時の伊能家は1000石を誇る酒造家で、黒字経営だったし、実際には衰退していたイメージはありません。経営を立て直したというよりは、忠敬の代になってから、飛躍的に収入を増やしたとするのが正確なところ。前述したように、傾いた家業を立て直したとしたほうが忠敬の偉人感がより増すという、戦前の道徳教育による誇張であるところが大きい」
そう語るのは、伊能忠敬記念館で学芸員を務める山口眞輝さん。
忠敬が29歳だった安永3年(1774)と49歳だった隠居前年の寛政6年(1794)における伊能家の収入を比較すると、前者が約351両(現在の通貨に換算すると約5000万円)、後者が約1264両(同約1億9000万円)と、約20年間で約3.6倍も収入を伸ばしている。これは、忠敬が推進した多角経営が大きい。
「本業の酒造業だけでなく、米など穀物の取引や店賃貸といった不動産業も手掛けました。江戸では薪炭問屋や金貸業も営んでおり、事業を拡大させていたんです」。
いまで言うところの〝投資センス〞にも優れていた。飢饉への対策として、忠敬は備蓄のために関西の米を大量に買い込んだ。だが、その年の米相場は予想に反して下落した。
しかし、翌年凶作に見舞われると、飢饉に苦しむ佐原の人々に米を施したうえで、余った米を江戸で売った。
「忠敬が賢かったのは、余った米を慌てて売って損切りするのではなく、飢饉によって米相場が上がった時点で売り払い、高値で売り抜けて大きな利益を上げたこと」。
測量に関心を持っていただけに、数字に細かかったことも、経営者としてプラスに働いただろう。飯炊きの使用人が使う米の量にも気を配ったほどだった。
こうした忠敬の優れた経営能力によって、伊能家は3万両とも言われる資産を形成するまでに至った。水をあけられていたライバルの永沢家とも肩を並べるようになり、佐原における地位も磐石なものにした。そして、「やるべきことはやり尽くした」との思いは、ライフワークともいえる暦学研究へと、忠敬を駆り立てたのだった。
〈雑誌『一個人』2018年6月号より構成〉