継体の台頭の背景には朝鮮半島の勢力があった!
新説! 謎の大王「継体天皇」と王位継承の謎 第8回
即位前にも半島に渡っていた!?
継体と朝鮮半島との密接な関係
継体の支持層は出身地周辺の豪族たちだけではなく、広範囲にわたっていた。若狭と九州有明海沿岸地域との間には、石屋型とよばれる共通する石室の存在など類似する要素があり、明らかに連携のあったことが推測されている。九州有明海沿岸地域の豪族のなかにも、広帯二山式冠や捩じり環頭太刀を与えられた者たちがいた。高島から若狭、若狭から有明海沿岸地域、そして朝鮮半島へ、といった国際的なネットワークが、継体の支持基盤の背景にあった可能性があるだろう。
近年、韓国の栄山江流域で13基の前方後円墳が見つかったことが話題になっているが、これを韓国慶北大学の朴天秀氏や大阪大学の福永伸哉氏は、倭国からこの地に派遣された九州の豪族たちの墓であろうと考えている。とりわけ福永氏は、継体が当時の百済王である武寧王を軍事支援するために彼らをこの地に派遣したのだろうと考えている。継体と武寧王とは密接な同盟関係にあったとみているのである。
継体と百済の武寧王との関係をみるうえで外すことのできない史料が、約48の文字が記されていることで有名な和歌山県隅田八幡宮蔵人物画像鏡である。文字が磨滅していて読めない箇所もあるが、山尾幸久氏の解読によると、この銘文は以下のような内容となる。
それは、「男(孚)弟王」が「意柴沙加宮(大和国忍坂宮)に在った時」に、「斯麻」が「長奉」(長く奉仕すること)を念じて二人の工人を遣わし、この鏡を作らせたといった内容である。山尾氏は、 この「男(孚)弟王」が即位直前の「男大迹王」すなわち継体天皇、「斯麻」が「斯麻王」すなわち百済の武寧王であり、武寧王が継体に長く奉えることを誓ってこの銅鏡を贈ったものと解釈している。継体が即位する前から2人は同盟関係を形作っていたとみるのである。
この鏡の解釈については今後も議論が続くであろうが、継体の台頭した背景に、朝鮮半島をめぐる国際的な交易や文化交流、また政治的・軍事的背景が介在していた可能性は高いだろう。今後は継体自身が即位前、半島に渡っていた可能性も検討したほうがいいのかもしれない。