ドイツの「猛獣戦車軍団」に立ち向かった「モスクワの守護神」T-34 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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ドイツの「猛獣戦車軍団」に立ち向かった「モスクワの守護神」T-34

ティーガー、パンター、エレファント・・・強力無比なドイツ戦車群と戦い抜いた「ロージナ(祖国)」と呼ばれた傑作中戦車

強力無比なドイツ戦車群と戦い抜いた「ロージナ(祖国)」と呼ばれた傑作中戦車にクローズアップする連載。その第1回。

T-34の原型ともいうべきT-32(A-32)。一応採用はされたものの、結局、改良型のT-34が第二次大戦でもっとも多く生産された戦車となった。傾斜した装甲板で構成され良好な避弾経始を備える、T-34にも引き継がれた当時としては画期的な車体のデザインに注目。

■「習作」T-32から「傑作」T-34へ

 1939年9月1日のポーランド侵攻で世界を戦争(第二次世界大戦)に巻き込んだドイツは、以降、連戦連勝の波に乗ってデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランス、ユーゴ、ギリシャなどを立て続けに軍門に下した。そしてその「剣の切先」を担ったのが、パンツァートルッペン(戦車部隊)とルフトヴァッフェ(空軍)であった。

 1941年6月22日、それまで独ソ不可侵条約によって同盟関係にあり、先のポーランド侵攻に際しては、西から攻め込んだドイツに呼応して東から攻め込んで同国を分割占領した間柄の「北の赤い大国」ソ連に対し、ドイツは「バルバロッサ」作戦をもって全面侵攻を開始した。東方にドイツ人のレーベンスラウム(生存圏)の拡張を求めたヒトラーにとって、ナチズムとは相容れない社会主義国ソ連との「一時的な偽りの盟友関係」など、取るに足らない事柄に過ぎなかったのだ。

 不意打ちに近いドイツの大攻勢に加えて、スターリンの恐怖政治を快く思っていないと疑われた軍事的に優秀な基幹将校多数が粛清され、政治的模範者ではあるが軍事面では無能な将校ばかりが幅を利かせていた当時のソ連軍は、歴戦のドイツ軍の前に大敗北を喫した。定見なき戦略と稚拙な戦術、さらに通信連絡の不良も重なって、師団はもとより、より大規模な軍団や軍のレベルでの降伏や壊滅が続発したのだ。

 

 こうして破竹の快進撃を続けるドイツ軍だったが、作戦地図上に赤いグリースペンシルで殴り書きされた進撃の矢印の最先端、つまり最前線では「異変」が起きていた。それは、当時としては高初速で大口径の砲を搭載した機動力と防御力に優れた中戦車と、きわめて重装甲で撃破しにくい重戦車が、ソ連側にぽつぽつと出現したことであった。しかもこのどちらの戦車も、現有のドイツのどの戦車よりも優れていた。

 だがドイツ軍にとって幸いだったのは、歴戦の自軍の戦車兵や戦車猟兵(対戦車砲兵)に比べて、ソ連戦車兵の練度と経験値が圧倒的に低かったため、これらの優秀な戦車の性能を生かした戦いができなかったことである。
 そのソ連戦車のうち、中戦車とは「パンター戦車」の項で既出(2018年04月04日配信)のT-34だ。ドイツ側に「T-34ショック」と称されるソ連戦車に対する危機感を強く喚起した同車は、新進気鋭のミハイル・コーシュキン技師によって設計された。

 過去にコーシュキンは、快速だが軽装甲で、ノモンハン事件において日本軍とも戦ったBT戦車シリーズの改良に携わったことがあった。そこで彼は、その時の経験に基づき、新戦車を相応の快速で歩兵支援だけでなく対戦車戦闘にも対応可能な、汎用戦車としての性格も持たせる方向で設計を進めた。
 このような経緯を経て、コーシュキンが手がけたT-32(A-32)がいったん採用されたものの、「攻・防・走」の能力をより強化すべきとの判断から速やかに改良に着手。そして改良型は試作車の完成すら待つことなく、1939年12月にT-34の名称で採用された。かくて、大祖国戦争(ソ連における第二次世界大戦の呼称)を勝利に導いた戦車が産声を上げたのである。

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白石 光

しらいし ひかる

戦史研究家。1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。


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