神功皇后の三韓征伐の伝承は、7世紀の中ごろに作り出された
神功皇后と三韓征伐の 知られざる真実③
「三韓征伐」は古代貴族の願望をあらわしたフィクションだった!? 連載【神功皇后と三韓征伐の 知られざる真実】第3回。
■有名な外征伝にもかかわらず具体的な戦闘シーンは皆無
[前回:神功皇后の三韓征伐。国土が波におおわれ…パニックになった新羅王から続く]こうした神功皇后軍をみた新羅王は、東方に日本という神国があり、天皇という聖王がいるときくといい、とても勝つことは不可能であるといって降伏してしまう。さらに、百済王と高句麗王も降伏し、三韓征伐はあっという間に成し遂げられてしまうのである。その後、神功皇后は筑紫(九州)へ帰り、そこで応神天皇を産むことになる。
以上が神功皇后の三韓征伐ということになる。有名な伝承の割には、何やら抽象的であり、戦いの場所・人数はもちろんのこと、状況や経過といった具体的な戦闘シーンはまったくみられない。
神功皇后については、現在、その実在性を疑う見解が多い。とするならば、三韓征伐も歴史的事実ではないことになる。それでは、この伝承はいつごろ、どのようにして形成されたのであろうか。この点はなかなか難しい問題であるが、作られた時期としては、7世紀の中ごろかといわれている。この時期はヤマト政権が国内の政治の安定をようやく得て、資源や領土の拡大を求めて目が朝鮮半島へと向かったときである。
三韓征伐伝承の形成時期を、7世紀の中ごろとする理由のひとつに、舒明天皇の存在があげられる。舒明は、推古天皇の没後、629年に当時、政権を掌握していた蘇我蝦夷によって擁立された天皇であり、641年に亡くなった。この舒明の名は息長足日広額尊であり、神功皇后の名である気(息)長足姫尊と似ているといわている。すなわち、両者には「息長足」という共通の語句が含まれていて注目に値するのである。こうしたことを背景にして、神功皇后の三韓征伐の伝承は、7世紀の中ごろに作り出された可能性が高いといわれている。
(次回に続く)