「志ん朝」と「談志」。何が違ったのか?
大事なことはすべて 立川談志に教わった第8回
■「解釈」より「解析」で精一杯
入門して20年以上が経過し、しかも師匠はもうすでにこの世を去ってしまったというのに、その遺してくれた言葉を時折反芻しても、いまだに解釈できない部分があります。
いや、解釈は永遠にできないのかもしれません。せいぜいその思考の痕跡を追跡調査するだけという、「解釈」というより「解析」するのが精一杯なのが正直なところです。
というのも、師匠は言動のみならず、思考までをもショートカットして処理する人だったからです。しかも「変幻自在」。時代の趨勢やらその折々の感性にまかせて、自分の理論も変化させてしまうのです。いや、変化というよりは、落語という生物を存続させるための進化というべきかな。
「落語は人間の業の肯定である」という歴史的な定義を世に問うたのは『現代落語論』執筆時。こんな全ての落語に存在意義を与えてしまったような心理の法則ですら、それに拘泥することは決してありませんでした。