「正義に御用心!」正義もまた胡散臭いものと思えるのは教養【藤森かよこ】
正義のために事実は黙殺されがち。正義の行使の動機が善とは限らない。
■正義もまた胡散臭いものとして眺めることは教養である
かくも、正義の扱い方は簡単ではない。正義の行使が必ずしもいい結果になるとは限らない。正義の実現のために事実が隠蔽されることもある。正義の名のもとにうさん臭いことがまかり通ることも少なくない。
それでも、これが正義なのだと声高に何回も何回も言われると、その正義はいつしか神聖不可侵なものとして無謬性(むびゅうせい)を持ってしまう。すると、その正義の行使に関して思考停止となり、その正義の行使の結果や内実を問わなくなってしまう。結果として、その正義に騙されるということが起きる可能性がある。
現代社会の正義はいろいろある。平和の実現や言論や表現や思想の自由の擁護は言うまでもなく、人権尊重、教育の機会均等、格差社会の是正、労働者からの搾取禁止に、人種差別や性差別や民族差別やLGBT差別や職業差別や年齢差別の撤廃にポリティカル・コレクトネス順守に動物愛護に温暖化防止などなど。
これらの正義の実現への努力は称賛に値するが、実現させるのが(ろくでもない)人間である限り、間違いはつきものだ。故意の悪用もありえる。
一般に、人間のすることで100%純粋に善であることもないし、100%悪であることもない。100%正しいこともないし、100%間違っているということもない。それは常識として知られている。それは普通の現実的な態度でもある。
しかし、それが正義や大義の実現のためとなると、現実的なものの見方ができなくなりがちだ。正義の味方が人類の敵である可能性もあると思っていることは、現代人の教養でもある。
正義に御用心。大義に御用心。ということで、ワクチンは打ちたくない私である。
文:藤森かよこ