なぜ「悪魔の靴」は人々の心を掴んだのか?【エアジョーダン秘史(23)=最終回】
1985年の1stモデルから今なお続くレジェンドバッシュのヒストリー。
本連載のエピローグとなる今回は、今一度シリーズの「ゼロ」地点を振り返って見たいと思う。
今なお「現役」として君臨し続けるエアジョーダン。その底力の原点とはーー?
「悪魔の靴」と揶揄された革命的なバッシュは
いかにして人々の心を掴んだのか?
幸運な偶然の積み重ねが「奇跡」のシューズを輩出
ちょっと昔話で申し訳ないが、ちょうど日本でエアジョーダン1が発売された当時は、まさに西海岸ブームの真っ最中。メンズファッションで言えば「POPEYE」が当時における日本の若者の絶対的なバイブルで、誰もがこぞってアメリカ西海岸カルチャーのファッションに憧れていたのだ。
対して、エアジョーダンが生まれた当時の全米スポーツカルチャーは、「ポスト・アディダス」。カリーム・アブドゥル=ジャバーやRUN DMCが築いたアディダス・スーパースターの牙城を誰が崩すのか?さまざまなスポーツメーカーが躍起になっていた時代だ。
おそらくエアジョーダンも、そうした全米の流れの中で生み出されたシューズだ。ジャバーやドクターJ(ジュリアス・アービング)などNBA人気プレーヤーが履くバッシュは、必ずヒットモデルとなった。そこでナイキは当時ナイキのバスケットボール・アドバイザーであったソニー・バッカーロが強く勧めるノースカロライナ大学3年のバスケットボールプレイヤー、マイケル・ジョーダンに注目した。バッカーロは当時、誰よりも早くジョーダンの素質を見抜き、ナイキ首脳陣をこう説得したと最近のCNBCレポートで述懐している。
「さて、いくらある?と私は言った。彼らは『50万ドルなら用意できる』と答えた。そこで私は、『それをジョーダンにつぎ込むんだ』とアドバイスした。アドバイスした。最初、彼らは渋っていたようだがね」。
しかしジョーダン自身は自称アディダス・ナッツ(アディダス狂)、当時のノースカロライナ大学もコンバースのサポートを受けているという中で、契約交渉は難航した。事実、ジョーダン自身は最後までアディダスと契約したかったが、当時のスーパースターを多く抱えるアディダスがジョーダンを満足させる条件を出さなかったという話は、今では有名なエピソードとして語り継がれるぐらいだ。
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