奇妙な廃墟に聳える邪宗門 『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』書評【酒井信】
■色川武大の小説と同様の「破綻していく者の調和と均衡」
福田和也と一コマにつき毎回1冊以上の本を読み、A4で5枚ほどのレジュメを毎回提出して議論する「敷居の高い授業」の型を作った。修士課程の時は、マルクス主義や精神分析関連の理論書を毎コマ1~3冊読み、サブゼミではドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』を一緒に読んだ。博士課程ではみすず書房の『現代史資料』を1巻ずつ読み、サブゼミの方は私が月5万円もらって担当するようになった。何れも膨大な量の課題を提出することが求められる授業だったため、履修者は少なかったが、これらの文献購読の授業に参加していた大学院生・学部生から10人近くが大学教員になった。
2001年にちくま学芸文庫から『江藤淳コレクション』全4巻が福田和也・編で刊行された。江藤淳全集は未だ刊行されておらず、他に『江藤淳文学集成』があるのみだが、福田がコレクションを「史論」「エセ―」「文学論Ⅰ、Ⅱ」という構成にした理由について細かく尋ねたことがあった。印象に残ったのは福田が、江藤が記した論壇向けの「史論」や文壇向けの「文学論」よりも『~と私』と題された一連の「エセ―」を高く評価していたことである。福田は、私情や日常の雑感の中から論を立ち上げる江藤の文章に、批評に留まらない文芸全体の可能性を見出していた。
「いまだに作家が創造的で、批評家は受動的、二次的だなどという愚かな思い込みを有している小説家や編集者が少なからずいる。私は、小説よりも批評の方が数層倍自由で多様な創造的なジャンルだという信念をもっており、批評家をして小説の解説者とするような封建遺風を根絶したい」(第六章「グロテスクな日本語」)
私も小説よりも批評が面白いと思っていたので、このような福田の批評に対する姿勢に魅了された。江藤淳の『アメリカと私』は、戦後日本の文学のピークを成す文芸書だと今でも思う。
福田和也は本書の第四章「色川武大 数え切れない事と、やり切れない事と」の中で、阿佐田哲也名義で『麻雀放浪記』などのヒット作を持つ色川武大について「破綻にも破綻のバランスがある」「破綻していく人生の中にも破綻していく者の調和と均衡がある」と述べている。『福田和也コレクション1』に目を通せば、一見すると様々なメディアに書き殴ってきたかのような福田の「エセ―」が、色川の小説と同様に「破綻のバランス」や「破綻していく者の調和と均衡」を有していることが分かるだろう。