「コロナ禍の不自由さ」を福沢諭吉ならどう考えたか?【中野剛志×適菜収】
中野剛志×適菜収 〈続〉特別対談第1回
■福沢が「瘠我慢の説」を解いた理由
中野:そうですね。もちろん新型コロナも明治維新も大きな出来事なので、「一身にして二生を経る」というような歴史の過渡期を経験することは、そう滅多にないのかもしれない。しかしながら、その一方で小林は「過渡期でない歴史はない」とも言っている。これも非常にいい言葉です。歴史は常に動いている。だから「一身にして二生を経る」ような今までの経験が通用しない、その環境に自分で処していかなきゃいけないことというのは、実は、常にある。人間はいつでも、多かれ少なかれ、変化する環境に制約され、それに対処しなければならないということがある。現在、我々は、コロナ禍という厳しい制約の下で生きざるを得なくなっています。
そういう時代の制約から逃れる、つまり「新型コロナがなければ自由なのに」というのは、リバティーという意味の自由です。しかし、それがフリーダムであるとは限らない。もしかしたら大変ご苦労されているので勝手に想像したら悪いかもしれないけど、例えば、尾身茂先生をはじめとする公衆衛生や感染症の先生方、あるいは現場の医療従事者の方々は、大変な事態に巻き込まれて、自分の好きなこともできないし、休む暇すらない。リバティーって意味では、極めて不自由な生活をされている。けれども、なんとかこの難しい状況を打破して国民を説得しなきゃいけないとか、いろいろ努力されている。先生方は科学者として、公衆衛生の専門家として、あるいは医師としての自分の職業・使命から、ご苦労されているときには、リバティーはないんだけれども、実はフリーダムはあるんじゃないか。感染症の学者や医療従事者として、今ほど使命感を覚えるときはないはずだからです。
適菜:なるほど。それこそ天職ですね。
中野:そういうフリーダムとしての自由というものを、日本に限らず、近代社会はきちんと理解してこなかった。
福沢が言った「私立」とは、日常的に言われている自由とはかなり違う。自由にも「リバティー」と「フリーダム」があると言いましたが、いわゆる「リベラリズム」は、その言葉のとおり、リバティーのほうの自由の主義なんです。それは近代以降の比較的新しい概念です。マキャベリのいた頃のルネッサンス期とか、あるいは古代ギリシャの自由には、フリーダム的な意味がある。「共和主義的な自由」とも言います。要するに、自分が生まれた国で自分の役割を果たすという意味合いが強かった。この「フリーダム」のほうの自由を福沢は「私立」と呼んでいたと思うのです。つまり、環境制約とか自分の職業の制約の下、その自分に課された役割を全うすることが自由だという意味として、「私立」というものを考えていた。そう解釈することで、初めて福沢が「瘠我慢の説」を書いた理由が分かってくる。福沢が「リバティー」を説いているのだとしたら、なぜ福沢が「瘠我慢の説」を唱えたのか、理解できないはずなんです。
適菜:福沢の「瘠我慢の説」を小林は重視していました。
中野:その通りです。「瘠我慢の説」というのは、簡単に言うと、幕末から明治にかけて、勝海舟とか榎本武揚とか幕臣だった人間が、明治政府と妥協したり明治政府に仕えたりしたのを福沢が批判して、「三河武士たる者、敵側につくなど、けしからん」「瘠我慢してずっと明治政府には協力しないということを貫けよ」と言ったのです。そのため、世間は「 お前、文明開化って言ってたのに、三河武士って、急に何なんだよ」と驚いた。ところが福沢が説いた「私立」をフリーダムのほうで考えると、むしろ幕臣として三河武士以来の武士道を背負い、それを全うすることが「私立」であり「自由」であるのです。
とは言え、「自由」「私立」という言葉もなかなか福沢の言いたい意味に合致しないものだから、福沢自身がそれに「瘠我慢」という言葉を当てた。「瘠我慢」と言えば分かるだろうというわけです。そのことについて小林がいたく感心している。確かに「瘠我慢」というのは面白くて、我慢だから制約されていることなんだけど、瘠我慢は「俺は自発的に我慢してるんだ」ということでしょう。だから環境制約を受け入れるという意味の「自由」は、まさに「瘠我慢」だなということです。フリーダムという、共和主義的な自由を「瘠我慢」という言葉で表現する福沢のセンスはすごいと小林は感心しているわけです。
適菜:この「瘠我慢」という言葉を、今の時代に当てはめるとすると、どうなりますかね?
中野:先ほど言ったように、感染症の専門家や医療従事者は、大変な事態の中で使命感をもって頑張っておられるから、「瘠我慢」ですね。それだけではなく、緊急事態宣言下での外出自粛も、「瘠我慢」と言っていいんじゃないですか。もっとも、政府は、国民の「瘠我慢」にばかり頼っていないで、もっと支援を手厚くすべきだとは思いますが。とにかく、多くの日本人は、人の命を守るため、コロナを収束させるために、立派に「瘠我慢」していますよ。その「瘠我慢」を「コロナ脳」だとか「社交を知らないから自粛できるんだ」とかいって騒いだ知識人がいました。その知識人は、自由と言えば「リバティー」だけで、「フリーダム」のことは知らないのでしょう。