人を説得することは可能なのか?【中野剛志×適菜収】
中野剛志×適菜収 〈続〉特別対談第2回
中野:ところで、前回の対談で、リベラリズムは「何々からの自由」「リバティー」の主義だと言いましたけれど、そのリベラリズムにもいいところがある。リベラリズムは、多様性を重んじ、相手の意見に寛容であるべしという主義です。しょせんお互いに理解し合えない。だったら、自分の生まれ持った環境や気質や人生経験で出来上がった固有の思想なり考え方を無理に一致させようとするのではなくて、どうせ最後は分かり合えないということで納得して、違った意見のまま、ある程度、共存するのを認める。そういう保守的なリベラリズムです。
一方で、みんなで理性的な議論を尽くせば同じ考え方に至るんだというようなリベラリズムもある。合理主義的なリベラリズムです。これは理性によって合意に至るとするものです。それに対して、保守的なリベラリズム、あるいはリベラルな保守主義によれば、議論は大いに尽くすんだけれど、最後は悲しいかな、言葉の限界のせいで、お互いに同じ意見になることはない。ないんだけれども、ある意味、分かり合ったフリをする、お互い分かり合っていないことを承知しつつも、共同の行動を取らないと社会が成り立たないということで、どこかで妥協して「暫定協定」を結ぶ。こういったことを認めるのが保守的なリベラリズム、あるいはリベラルな保守主義ということになります。
さて、「人を説得することはできるか」という問題に戻ると、本質的に違った人間を言葉ごときで説得するというのは不可能である。その言葉の問題と関係するのが、適菜さんが『コロナと無責任な人たち』でしきりに書いておられた「自己欺瞞」の問題です。自分を自分で騙すというのは、言葉で自分を騙している。つまり、自分で言葉を発して、その言葉を自分で理解して「俺はこうだ」と勝手に決めつけ納得する。例えば、「俺は日本のためを考えているんだ」「国民のためを考えているんだ」「俺は誰の批判も恐れないで正義を貫いているんだ」とか、自分で自分に言い聞かせる。
自分に言い聞かせるなんてことができるのは、多分、言葉のせいでしょう。イソップ寓話の「狐と葡萄」はまさに自己欺瞞の話ですけれど――狐は言葉をしゃべれないので本当は自己欺瞞もないんですが――言葉は、自分で自分を騙すツールでもある。自己欺瞞に陥っている連中とかを見ていると、言葉というものは、つくづく恐ろしいものだと思います。
■「言葉の恐ろしさ」と自己欺瞞
適菜:彼らは自分の発した言葉にしばられてしまったという側面もあります。言葉の恐ろしさを自覚するのが本来の保守であるはずです。保守主義とは近代において、理性や合理ですべてを割り切れるという発想を批判し、表層に浮かんでこない知を重視する立場のはずですから。だから過去の保守思想家は宗教や迷信、先入見を擁護した。しかし、理性過多になって、自然との接続がなくなると、言葉は暴走していく。
中野さんがおっしゃったように、言葉は世の中すべてを捉えられるものではない。それどころか、誰でも知っているようなことでも、言葉では説明できなかったりする。本田宗一郎は誰でもリンゴの味を知ってるが、りんごの味はこれだという適切な言葉はないと言っていますね。前回の対談でも言ったかもしれませんが、コーヒーの香りですら、言語化することはできない。自転車の乗り方も、泳ぎ方も言葉では伝達することができない。だから、実際にやってみて習得するしかない。
概念では世界のわずかな領域しか示すことができない。だから、理性だけでのぼせ上がった頭でっかちのバカは危険なんです。その一例が藤井聡の「自粛厨」だの「コロナ悩」といった発言でした。マッドサイエンティストみたいなのが真善美とか「当方の理性的な説明を教えて差し上げる」などと言って、社会を変革しようとするのが一番危ない。チェスタトンは保守主義者ではありませんが、彼の「狂人とは理性を失った人のことではない。 狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」という言葉はその通りだと思います。
中野:昨年の春頃、大騒ぎするマスコミや、外出自粛を求める感染症の専門家たちに対して、「インフルエンザや自動車事故で、もっと大勢死んでいるのに、この程度で騒ぐのはおかしい」とか「命より大事なものはないなどという生命至上主義を懐疑すべし」といった批判を展開した知識人たちが出てきました。その後、新型コロナは世界中で大勢の死者を出し、国内でも大阪を医療崩壊させるという事態をもたらした。ところが、彼らの中には、未だに「自粛には効果がない」「緊急事態宣言は不要だ」という新型コロナ軽視の論調を続けている者がいる。
適菜:頭の中が更新されていないんです。「メディアが騒ぐので過剰な行動制限がかかり経済が疲弊している。これは全体主義だ」といったレベルの言説も一時期蔓延していましたね。「自殺者が増える」とか「夜の街の人がかわいそう」と言って善人面して見せたり。新型コロナで死ぬ人は気の毒ではないのか。本当に気持ち悪い。批判すべきは、場当たり的な政策で社会を混乱させ、必要な補償をしようとしない政府です。
中野:そういう新型コロナ軽視論のボスみたいな学者にくっついて言論活動をしている知り合いがいた。その彼――名前は敢えて伏せますが――と話していたら、何と、自分のボスの議論がデタラメだと分かっているのです。だったら、そういう言論活動から離脱すべきだと彼を説得しようとしたことがあります。でも、駄目でした。その彼は「別に、自粛しないのは不謹慎だという風潮に異を唱える意見があったって、いいじゃないですか」とか「僕の関心は、もっと別のところにあるんです」とか、あれこれ御託を並べて、結局、離れようとはしないのです。要するに、間違っていたと分かっているのに、態度を改めないですむ理屈を自分で考えて、自分で納得しようとしている。自分を騙しているんです。こういう自己欺瞞に閉じこもった人間を説得するのは不可能です。とりわけ知識人、言論人は、言葉を極度に武器にしていますよね。そうすると、知識人、言論人には、自己欺瞞に陥りやすい危険性がものすごくある。
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「新型コロナは風邪」「外出自粛や行動制限は無意味だ」
「新型コロナは夏には収束する」などと
無責任な言論を垂れ流し続ける似非知識人よ!
感染拡大を恐れて警鐘を鳴らす本物の専門家たちを罵倒し、
不安な国民を惑わした言論人を「実名」で糾弾する!
危機の時にデマゴーグたちに煽動されないよう、
ウイルスに抗する免疫力をもつように、
確かな思想と強い精神力をもつ必要があるのです。
思想の免疫力を高めるためのワクチンとは、
具体的には、良質の思想に馴染んでおくこと、
それに尽きます。――――――中野剛志
専門的な医学知識もないのに、
「コロナ脳」「自粛厨」などと
不安な国民をバカにしてるのは誰なのか?
新型コロナに関してデマ・楽観論を
流してきた「悪質な言論人」の
責任を追及する!―――――――適菜収
●目次
はじめに———デマゴーグに対する免疫力 中野剛志
第一章
人間は未知の事態に
いかに対峙すべきか
第二章
成功体験のある人間ほど
失敗するのはなぜか
第三章
新型コロナで正体がバレた
似非知識人
第四章
思想と哲学の背後に流れる水脈
第五章
コロナ禍は
「歴史を学ぶ」チャンスである
第六章
人間の陥りやすい罠
第七章
「保守」はいつから堕落したのか
第八章
人間はなぜ自発的に
縛られようとするのか
第九章
人間の本質は「ものまね」である
おわりに———なにかを予知するということ 適菜 収