『日本書紀』が聖徳太子を攻撃している!?
聖徳太子は誰に殺された?②
■密かに聖徳太子をけなしていた『日本書紀』
『日本書紀』が聖徳太子のことを引きずりおろしているという例を2、3あげてみよう。
まず『日本書紀』は、聖徳太子の側近中の側近である小野妹子をけなすことにより、 間接的に聖徳太子の評価を下げようとしている気配がみられる。
小野妹子はいわずとしれた聖徳太子の右腕であり、推古天皇15年(607)、遣隋使として隋との国交を開いた最大の功労者である。彼の墓は大阪府南河内郡太子町の磯長谷と呼ばれる場所にあるが、この一帯は、敏達・用明・推古の各天皇、そして聖徳太子という、聖徳太子とその身内ばかりを集めた古墳群として有名である。そして小野妹子は、一般豪族としては異例な形でこの古墳群によりそうように葬られているのだ。
この妹子の墓のあり方を思えば、聖徳太子がいかに妹子に信頼を寄せていたかは明白である。
しかも、隋との国交樹立という国家の一大プロジェクトを成功させるためには、有能で行動力のある小野妹子のような存在が必要不可欠であったことは、容易に想像のつくところである。
ところが、なぜか『日本書紀』は、この妹子の存在を非常に冷淡に扱っている。
たとえば、妹子は聖徳太子が制定した冠位十二階の最高位である「大徳冠」に任ぜられ、人臣としての頂点に昇っていたことは、『続日本紀』(和銅7年4月の条)や『新撰姓氏録』の記述からみても明らかであるのに、『日本書紀』はこの事実をまったく無視している。
また、妹子の子・小野毛人なる人物に関しても、天武朝に太政官兼刑部大卿に任ぜられ、位は大錦上(正四位相当)にまで昇ったことが墓誌銘のなかに記されているのだが、これほどの官位をもった人であれば正史に登場してしかるべきところ、「日本書紀』はこれまた無視しているのだ。
また、小野妹子は『日本書紀』のなかでたった一度しか登場していない。そのうえ、その唯一の機会である隋との国交樹立に活躍した場面でも、『日本書紀』は妹子が重大な不手際を犯したと責めたてている。つまり、妹子が隋からの帰途、隋の皇帝からあずかった国書を紛失するという失態をさらけだしたというのだ。
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