「戦場の海」で八面六臂の活躍をはたした駆逐艦
「艦隊のワークホース」こと万能軍艦の実像に迫る!
■駆逐艦の誕生
軍艦の兵装が砲のみだった時代は、大口径で大威力の砲を多数積んだ軍艦が強いのは当然だった。だが、砲には反動があり、軍艦は積んでいる砲の反動を受け止めなければならない。そのため、砲が大きくなればなるほど(巨砲)、また、砲の数が多くなればなるほど、軍艦もまた大きく(大艦)ならざるを得なかった。
ところで、船を沈めるにはその内部に水を入れてしまえばよい。しかし、砲弾は主に船の喫水線よりも上に命中する。ゆえに当時の軍艦は、敵艦に多数の命中弾を与えて喫水線よりも上を破壊し、「浮かぶ残骸」と化して反撃不能に追い込んだところで、艦首の水面下に突き出したラム(衝角)で体当たり(これをラミングという)し、喫水線下の船体に大穴を穿ち大浸水させて撃沈するという戦法を用いることもあった。
かような次第で、巨砲が搭載でき、内部容積が大きいため浸水にも強いという2点から、原則論として、軍艦は大きい方が「強い船」だと見なされていた。大艦巨砲主義の台頭である。
ところが19世紀末、自走式の魚形水雷(魚雷)が発明され、状況は大きく変化した。魚雷は、喫水線下に孔を穿って浸水をもたらすので、下手な巨砲よりも船にとっては怖い兵器となったのだ。また、砲には発射時の「作用反作用」によって反動が生じるが、魚雷は自己推進機能を備えているので発射時に反動が生じず、簡便な発射装置から撃ち出すことができた。
その結果、従来なら絶対にできなかったこと、すなわち、魚雷を搭載した小艇を使って、巨砲を搭載した大艦を沈めることが可能となったのである。この小艇が水雷艇(Torpedo Boat)で、特に戦艦を保有できないような小国が、大国の大艦隊から自国の領海を守るといったシチュエーションにうってつけの艦種となった。
しかし一方で、小型ゆえの高速をもって自らよりもはるかに大きな軍艦を襲撃する水雷艇は、小さいことがあだとなり、海況が比較的穏やかな沿岸部を中心に活動せざるを得なかった。つまり防衛型の兵器という訳だ。
そこで、戦艦などとともに航洋可能な最低限のサイズで、敵の水雷艇を狩る任務を帯びた水雷艇駆逐艦(Torpedo Boat Destroyer)という艦種が、イギリス海軍の第3海軍卿ジョン・アーバスノット“ジャッキー”フィッシャー少将を中心にして開発された。ちなみに彼は、のちに戦艦「ドレッドノート」、巡洋戦艦、大型軽巡洋艦(ハッシュハッシュ・クルーザー)といった画期的な軍艦を世に送り出すことになる、「イギリス海軍の至宝」とも称された人物である。
1892年、この新しい艦種の最初の6隻が発注された。そして1913年頃から「水雷艇(Torpedo Boat)」の語句が外されて単に「駆逐艦(Destroyer)」と称されることが多くなり、1917年、ついに「駆逐艦」が正式な艦種名として用いられるようになった。
かくして、水雷艇を狩る軍艦として誕生しながらも、水雷艇が苦手な航洋性を備えているため遠洋上での魚雷攻撃を行うべく自らも魚雷を搭載するようになった駆逐艦は、やがて「艦隊のワークホース」として「戦場の海」で八面六臂の活躍をはたすことになる。