「近代洋画の父」黒田清輝は、楽しくマイペースに生きていた?
歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第44回 ~黒田清輝
続いて、十二運星を見ていく。
「病(びょう)」
夢見がちで空想が好き。芸術性が高く神秘的なものを好むが、現実的でなく優しすぎる面を持つ。ムードメーカーである。
芸術性が高い、という点では非常に納得がいく結果だが、清輝には、現実的でない優しすぎる面もあったようだ。甥の清邦によると、口癖の一つに「絵は決して売るために描いてはいけない」というのがあったという。これは清輝の信念であったそうで、「絵が欲しい」という人が訪ねてくると、法外な値段を提案するにも関わらず、「売るのは嫌だ」と言って進呈していたという。また、家には俳優や相撲取りが居候していたそうだが、ある喜劇俳優が絵を盗み出そうとした。清輝は玄関で捕まえると、「盗むほどほしいなら結構だ。もっていけ」結局やってしまったのだとか。浮世離れし、優しすぎる性格が伝わるエピソードだ。
「冠帯(かんたい)」
女王様の星。「帝旺」(王様の星)、「建禄」(王子様の星)とともに「身強(みきょう)の星」と呼ばれ、エネルギーが高く人の上に立つことができる。女王様のように、華やかさを好み、社交の場で活躍する。独立精神旺盛で、中年以降に成功する。
旅に出かけるのにもたいてい普段着で、妻の照子が晴れ着を着ることも嫌ったという清輝。代表作「湖畔」を振り返り、照子は、「この時も木綿の浴衣を着ていましたが、当時二十四才の私にはこれが大いに不満でございました」と話している。服装に華やかさは見られなさそうだが、当時日本に数えるほどしか輸入されていなかった、ビュイックという超高級乗用車に乗っていたという。車についてはこだわりがあったのだろうか。
「長生(ちょうせい)」
学問が好きで順応性が高く、穏やかな性格。精神的に見栄があり、とにかく人から信用される星。
清輝は日本に裸体画を取り入れた人物としても知られる。1895(明治28)年の第4回内国勧業博覧会にて、清輝は「朝妝(ちょうしょう)」を出品し、妙技二等賞を受けたのだが、この作品が裸体画であったことから、風俗を乱すものとして諸新聞がいっせいに非難の記事をかかげた。清輝は、沈黙を守りながらも、抵抗の姿勢を崩さなかった。裸体画の公開を巡るメディアの批判や、官憲による取締は、その後も繰り返し見られたが、今となっては、裸体画は日本において芸術としてすっかり板に付いている。このようにみなされるようになったのも、清輝への信頼からだろうか。
今回の鑑定結果について、黒田清輝の又甥(清綱の孫、清邦の長男)の黒田清久氏に感想を伺った。「鑑定結果については、とても納得できる。曽祖父と対立したこともうなずける。父からよく大叔父の話を聞いていたが、一番印象に残っているのは、『字がうまく書けないのは本当の画家ではない。たった一文字のバランスをきれいにとることができない人間に絵などかけるわけがない』という言葉だった。その言葉を通して、画家としての気概と遊び心を感じた」
「近代洋画の父」として、今でもファンの多い黒田清輝。名家ゆえ親の反対を受けたり、メディアの批判を受けたり、一見大変そうに見えるが、鑑定の結果、楽しくマイペースに生きている様子が目に浮かんできた。清輝の遺言によって、その遺産で上野に黒田記念館が作られ、現在、清輝の作品が多数展示されている。清輝に思いを馳せ、そのエネルギーを感じに、久々に訪れてみようと思う。
古代中国で生まれた「過去、現在、未来」を予見する運命学のひとつで、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)をもとに、人が生まれながらにして持っている性格、能力、素質を理解し、その人の努力や経験で変わる後天的な運命までも予測することができる。
具体的には、生まれた日(生まれた年・月・日・時間)をもとに命式表(めいしきひょう)を作成し占っていく。なお、ここでは生まれた時間は鑑定に含めていない。
「国史大辞典」に記載されている生年月日を、「和洋暦換算事典」を用いて現行暦に換算し鑑定している。
【参考文献】
「黒田清輝〈湖畔〉のモデルをめぐって 黒田清輝〈湖畔〉美術研究作品資料第5冊」山梨絵美子 中央公論美術出版(2008)
「特別展 生誕150年 黒田清輝―日本近代絵画の巨匠」東京国立博物館、東京文化財研究所、朝日新聞社、NHK,NHKプロモーション 美術出版社(2016)
東京文化財研究所ウェブページhttp://www.tobunken.go.jp/materials/
kuroda_works/117004.html(平成30年8月9日最終アクセス)
ヤナセライフ7月号 Sun post(1982)