「万人に土地を平等に与える」聖徳太子の律令制度導入が引き金か。
聖徳太子は誰に殺された?⑤
■改革派・聖徳太子に対する朝廷の反発
聖徳太子の業績として有名なのは、遣隋使の派遣、十七条憲法、冠位十二階の制定などといった、歴史の教科書に必ず登場する事例である。
だが、なんといっても聖徳太子最大の業績は、古いシステムを終焉させ、日本の近代化をめざしたことにある。いわゆる律令制度の導入への道筋をつけたのである。
律令制度とは、中国の隋・唐が作りだした、中央集権国家体制のための体系的な政策である。そしてこの制度の最終的な目的は、土地制度の改革にあった。
隋(581~619)が誕生した当時、日本はまだ血縁的結束を重視した氏姓制度に束縛されていた。すなわち、それまでは古代豪族・皇族の政治的基盤は土地の所有にあり、この土地の世襲によって、彼らは安穏たる生活を営んでいた。しかし六世紀になると、この特権階級による土地・人民の私有、さらには官職世襲制が多くの弊害を抱えこむようになっていた。
これらの旧態依然たる慣習のために国力を弱めつつあった日本は、国内的には豪族間の紛争の激化、国外的には新羅によって任那の日本府が滅ぼされる事態に陥っていたのである。
このような閉塞的な事態を打開し、国内体制を強化して、大陸の先進文化に遅れをとらないためにも、中央集権化、律令制度の導入が早急に必要だったのである。
律令制度による土地改革とは、具体的に説明すると、全国の土地をいったんは国の所有とし、これを再度公平に人民に分配するという政策だった。
当時、政権の中枢に立ち、日本の近代化に邁進していた若き理想主義者・聖徳太子の心情が、『伊予国風土記」逸文からうかがえる。法興元年(推古4・596)10月、伊予(現在の愛媛県)を訪れた聖徳太子は、神の井(温泉)を観てその妙験に感動し、次のように語ったという。
「太陽や月は、天からあまねくわれわれを照らし、恩恵を与え偏ることはない。また、神の井(温泉)は下から湧き出し、誰にでも恩恵を与える。万機(政治)はこのゆえにうまく行われ、人々は静かに扉を立てて安心して生活する。すなわち日は照り、水は湧き出し、偏ったところがなく、天寿国と異なることがあろうか」
この伊予における聖徳太子の感嘆は、政治を司る者にとっての理想を詠みあげたものである。そして、この聖徳太子の理想とした"天寿国"の日本における具現とは、すなわち律令制度の導入による土地改革にほかならなかった。
だが、旧態依然たる土地制度の恩恵にあずかっていた特権階級にとって、万人に土地を平等に与えるという律令制度の導入は、きわめて不都合なことであった。
つまり、聖徳太子の理想が高過であるがゆえに、他の皇族・豪族にとっては太子の存在が次第にけむたいものになっていくという図式が出来上がっていったに違いないのである。
ここに聖徳太子の悲劇はあったのだ。
孤高の理想主義者・聖徳太子は、政治改革を断行しようとしたがために、逆に守旧派の人々に恨まれるようになっていったはずである。
(次回に続く)
〈『聖徳太子は誰に殺された?』〉より