コロナ禍は「歴史を学ぶ」チャンスでもある【中野剛志×適菜収】
中野剛志×適菜収 〈続〉特別対談第4回
適菜:だから左翼の歴史観や世界観は非常に薄っぺらなものになる。事実を並べれば歴史になるという発想は小学生レベルのものです。歴史は歴史家が作り出すものです。E・H・カーが言っていますが、カエサルがルビコン河を渡ったのは歴史的事実だが、それ以前にも、それ以後にも、ルビコン河を渡った人間は星の数ほどいると。しかし、彼らについての資料は存在しないし、誰も関心を持たない。つまり、歴史家の選択や解釈から独立した客観的で科学的な歴史認識などありえないと。だから、歴史研究は歴史家研究にそのままつながるという話です。小林はこう言っています。
《ヘーゲルの史観は、ブルジョワ階級の文明の進歩の考えに、よく適合していたし、この虚を突いてあらわれたマルクスの史観も、歴史の必然の発展による新しい階級の交代を信じていた。要するに、一九世紀の合理主義の歴史観は、社会の進歩発展という考えにかたく結びつき、過去の否定による将来の設計に向かって、人々を駆り立てた》
こうした弁証法により過去は死んだと小林は言うわけですね。
《あらゆる歴史事実を、合理的な歴史の発展図式の諸項目としてしか考えられぬ、という様な考えが妄想でなくて一体何んでしょうか。例えば、歴史の弁証法的発展というめ笊で、歴史の大海をしゃくって、万人が等しく承認する厳然たる歴史事実というだぼ沙魚を得ます》(「歴史と文学」)
小林が言いたいことは、史観は歴史を考えるための手段であり道具にすぎないということです。
《唯物史観に限らず、近代の合理主義史観は、期せずしてこの簡明な真理を忘れて了う傾きを持っている。迂闊で忘れるのではない、言ってみれば実に巧みに忘れる術策を持っていると評したい。これは注意すべき事であります。史観は、いよいよ精緻なものになる、どんなに驚くべき歴史事件も隈なく手入れの行きとどいた史観の網の目に捕えられて逃げる事は出来ない、逃げる心配はない。そういう事になると、史観さえあれば、本物の歴史は要らないと言った様な事になるのである》(同前)
■学問とは一代限りなのか?
適菜:小林は批評の題材を使って自画像を描いたとよく言われます。モーツァルトが模倣の果てに何かを生み出したという話をするのは、自分に重ね合わせているわけですね。ピカソの目の見え方、兼好法師の目の見え方、モネの目の見え方に驚愕するということは、「それに驚愕する自分の目の見え方」に驚愕しているということです。小林はこう言っています。
《大切なことは、真理に頼って現実を限定することではない、在るがままの現実体験の純化である。見るところを、考えることによって抽象化するのではない、見ることが考えることと同じになるまで、視力を純化するのが問題なのである》(「私の人生観」)
前回の対談でも述べましたが、宣長の学問の方法も全く同じですね。現代人の「さかしら」な解釈により古典を理解するのではなく、古典の「姿」「形」が見えてくるまで見たり、声が聞えてくるまで聞くということです。小林は言います。
《歌は読んで意を知るものではない。歌は味うものである。似せ難い姿に吾れも似ようと、心のうちで努める事だ。ある情からある言葉が生れた、その働きに心のうちで従ってみようと努める事だ。これが宣長が好んで使った味うという言葉の意味だ》(「言葉」) 。
中野:そうすると、「理解」というものには、つらいところがある。先ほども言ったように、想像力が豊かな人じゃないと、歴史を理解できない。それと同じで、モーツァルトとかピカソのことを小林が理解できたのは、小林が彼らと同じようなタイプだからですよね。自分が同じようなタイプだから、ピカソの絵とかモーツァルトの音楽とかに共感し、追体験し、理解することができた。だとすると、ピカソやモーツァルトは、誰でもみんなが理解できるようなものじゃないということになる。これは前々回の対談の「説得不可能」という話と同じです。
そういうわけですから、小林についても、本当に誤解が多いと思いますね。もちろん、「私は、小林を全部理解した」とか、「私は小林と同じタイプの人間です」とか言う気はありませんが。小林もピカソやモーァツルトを全部理解しているわけではないんでしょうけれども。これは、学問というものを考える上でも、実に恐ろしい話です。人のことは理解できないし、自分のことを他人に理解させることも一生できませんということと同じで、理論とか思想というものも、一代限りだ。従って、もし思想史というものがあるとしたら、それは飴のようにつながって伸びているというものじゃなくて、数珠玉みたいになっているはずだと小林は言っています。つまり、思想は、思想家ごとに一つ一つ、あるものなんだと。