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大乱のはじまりとは?凋落する将軍家の権威

「応仁の乱」京の都を焼き尽くした天下の大乱の11年①

■広がる各守護家の内紛が将軍後継者争いで爆発!

 そんな中で発生したのが、(きょう)(とく)3年(1454)の畠山氏の内紛である。河内・紀伊・越中・山城の守護を兼ねる畠山家の主・持国は、前管領で、義政の将軍就任に大きく貢献したこともあり「畠山権勢無双」(「大乗院日記目録」)と称えられたほどの大物である。その持国には子が無く、弟の持富を跡継ぎに指名していたのだが、その後実子の義就が生まれたために持富を廃嫡したのだ。それが家臣団内部の対立を生み、これを鎮めるために持国は持富死後にその子の政久を後継者とする。しかし逆にいよいよ事態は混乱、義就支持派の遊佐氏らと政久支持派の神保氏らとの武力衝突に発展してしまった。

 これを邪魔な畠山氏の勢力を削ぐ良い機会と捉えたのが、管領の細川勝元と、かつて日本六十余州のうち10カ国の守護を兼ね「六分ノ一殿」と敬された山名八家を復興させた実力者、山名宗全である。ふたりは政久派を支援し、畿内各所で合戦が繰り広げられたが、最終的に義政の介入で義就が勝利。だが、翌年政久が死去しても騒ぎはまだ収まらない。政久派は弟の政長を担いで戦い、挙句の果てに寛正元年(1460)義就が紀伊の根来寺と対立すると、義政は義就を更迭し政長に畠山家家督を譲らせてしまう。その後河内・大和で勢力を養った義就は、5年後の寛正6年(1465)以降ふたたび兵を挙げて政長派と戦い続けた。

 

 一方、細川・畠山と同じ管領の家柄を誇る斯波氏にも内紛が発生している。越前・尾張・遠江守護職だった斯波義敏が、重臣筆頭で越前・遠江守護代をつとめる甲斐氏と対立し長禄元年(1457)失脚、新たな斯波家家督となっていた義廉に対し、翌年越前で両者の武力衝突が発生。そのあげく、長禄3年(1458)義敏は義政によって追放されていたのだ。その後、義敏の子・義寛は、渋川氏から入った斯波義廉に当主の座を奪われ、文正元年(1466)義敏が一時当主に返り咲くものの、義廉は舅の山名宗全を後ろ盾にして反撃。ふたたび斯波家家督を手にしていた。同様に、近江の六角氏は高頼と従兄の政堯が家督を争い、信濃でも小笠原清宗が又従弟の政秀と対立。特に加賀における富樫政親と赤松政則による一国守護をめぐる争い、そして政親と弟の幸千代の対立は、のち大きな衝突に発展する。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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