『上宮聖徳法王帝説』の不可解な記述
聖徳太子は誰に殺された?⑧
■太子の死が病気か自然死ではないのではないか?
実際、太子が自殺したのではないかと疑われても仕方ない証拠がある。 前出の『上宮聖徳法王帝説』は、多くの太子伝を寄せ集めた特殊な文献であるが、この文献のテーマは太子の業績を記すことではなく、太子の"死"について多くを語ろうという、不思議な内容になっている。
たとえば、法隆寺金堂釈迦仏光背銘の、
「王后(膳夫人)即世しぬ。翌日に法皇(聖徳太子)登退しぬ」(膳夫人が亡くなった 翌日に聖徳太子が亡くなったという意味)
という記事を引用したうえで、次のような解説を入れている。
「即世しぬ、登退しぬトいふは、是即ち死ぬるコトノ異なる名ソ」
つまり「うせましぬ」という言葉は、太子と夫人の「死」を意味するというのだ。
また、銘文中の次の一節、「生を出で死に入るに、三ノ主(聖徳太子と母と夫人)に随ひ奉り」
に対し、
「『生を出で死に入る』トいふは、若しは其ノ生まるる所に往き反る辞ソ」
としているが、「生を出で死に入る」というこの言葉の意味は、この三人が生まれたところに返る、すなわち往生したことだ、と繰り返している。
それにしても「上宮聖徳法王帝説』は、なぜこれほどまでに聖徳太子の死を執拗に 追いつづけるのだろうか。しかも太子とその母(穴穂部間人皇女)、夫人がほぼ同時 に亡くなったことに異常にこだわっているようで、
「若し疑はくは」
つまり、もし疑うのならば、三人は同じ墓に眠っているではないか、とわざわざ語っている。この証言は、太子の死になんらかの疑いがあるといっているのも同然で、まるで太子の死には秘密が隠されていると暗示しているようである。
もし太子の死が病気か自然死であったのなら、『上宮聖徳法王帝説」の筆者は「もし 疑うのなら」などというような意味深長な言葉は使わなかったはずだ。
さらに「上宮聖徳法王帝説』は念を入れている。
「我が大王、母王ト期りしが如、従遊したまひき」
これは太子のもう一人の夫人・多至波奈大女郎(位奈部 橘郎女)の言葉で、大子とその母は、まるで約束をしていたかのように死んでしまった、というのである。 この一節にも『上宮聖徳法王帝説』は過剰な説明を加えている。
「太子崩トいふは、即ち聖王ソ。〉従遊トいふは、死ぬるコトソ。>」
つまり、これも太子が死んだことを、念には念を入れて強調しているのである。
(次回に続く)
〈『聖徳太子は誰に殺された?』〉より