対症療法として、仏教を利用することのススメ
向谷匡史氏インタビュー⑤
前回は今回の新刊の内容を絡め、著者の考えを語っていただいた。今回は執筆に際して意識していたことと、読者へのメッセージです。
■宗教的エビデンスを明確に。
――各章に仏教の教義の名前を据えています。これらを並べてからストーリーを組み立てていったのですか?
両輪で考えました。ストーリーばかり先行しても教義が乗らない場合もあるし、とにかく構成上は、まず何を語らなくてはいけないか? それはどこのストーリーにおいて語っていくかという、まず大まかなことを考えながら組み立てていきました。ただ問題は、というか、難しかったのは、匙加減でした。仏教に偏りすぎても固くなるし、ヤクザに偏りすぎてもそれはそれで問題がある。そのバランスは意識しましたね。
また、教義に漏れがないか、そこはしっかり組み立てていきました。最低限、仏教と浄土真宗の基本が入っていないと入門書にはなりませんからね。構成に時間をかけて、後はスムーズに楽しみながら書き進めることができました。
さらに教義的に間違いがないか、念入りにチェックする必要がありました。例えば、「因縁生起」について書いたら、その出典はどうなっているか。どの流派のどの先生が書いているものがベースとなっているか、宗教的エビデンスを明確にしていきました。そういった意味で、本書を執筆することで私自身、改めて仏教を勉強しなおすことができました。ただやみくもに本を読んでも覚えられませんからね。
■仏教は現実や価値観の写し鏡
――これを読んだ読者に何が伝わると?
昨日よりも今日が楽になる、気持ちや考え方が少しだけ変わればいいと思います。別に釈迦がどうだとか、諸行無常がどうだとかを知りたくて仏教を学ぶわけではないし、ましてや学者になろうというわけではない。結局、私たち僧侶も自戒しなくてはいけないのですが、仏教というと総体を説明しようとする傾向がある。
でも、それは一般の人に必要なのか? 目の前に悩み事がある人に釈迦を説いても、“またにしてくれ”と言われるのがオチです。つまり対症療法でなくてはダメだということです。昨日より今日が楽になる対症療法でどこが悪いのだと。医者が痛みを抱えている患者に、根治にならないから我慢しなさいというわけにはいかないでしょう。往々にして仏教人は根治療法に向かいたがるような気がします。
私自身、仏教ありきで生き方を考えているのではなく、自分の価値観が仏教に照らし合わせたときにどうなのか?というところから仏教を習い始めたので。決して仏教のことを勉強したいわけでなく、今現在、生きていること、生きてきたこと、これから生きていくうえで仏教を学ぶことがどう必要かという、どう質するかということが大事だと思っています。だからイワシの頭も信心で良いのですよ。
こういう話も、私が寺のせがれとか、大学院を出たような偉い僧侶でないから言えるんでしょうね。
仏教の面白さは、自分の今、生きていること、現実や価値観の写し鏡になっているということ。だから、ちょっと入っていくと面白いんですよ。一行でも読んでもらって気持ちが楽になったとか思ってもらえたら嬉しいですね。