世にも妖艶な仏像「太子等身像救世観音」に秘められた謎
聖徳太子は誰に殺された?⑩
■光背が仏像の頭に釘を打たれミイラのように隠された訳
世にも妖艶な仏像に秘められた謎。 では、梅原猛氏の直感は、正しいのだろうか。 そして、光背が仏像の頭に釘を打たれている、ということから、梅原氏はこの犯罪行為が、太子の怨念を恐れた人の手によってなされたと推理している。
梅原猛氏が「崇る聖徳太子」を推理した理由は、救世観音だけではない。ヒントは、上宮王家滅亡事件にあるという。
聖徳太子の死後、息子の山背大兄王の一族は、蘇我入鹿の差し向けた軍団に追われ、生駒山に逃れた。挙兵の進言を受けた山背大兄王だったが、自分ひとりのために多くの人に迷惑はかけられないと、斑鳩の地に戻り、一族とともに滅亡して果てた。これが上宮王家滅亡事件である。そしてこの後、中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足は、国家の危機を感じとり、蘇我入鹿を暗殺し、蘇我本宗家は滅亡したのである。
乙巳の変(蘇我本宗家滅亡が乙巳の変。この後に進められる改革事業を大化改新という)の現場で、中大兄皇子は蘇我の悪を証明するために、蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼしたことを取りあげ、糾弾している。だが梅原猛氏は、上宮王家滅亡事件には黒幕がいたという。それが中臣鎌足で、蘇我の内紛を利用して、漁父の利を得たという。 つまり、上宮王家滅亡によって蘇我入鹿が大悪人になってしまったが、中臣鎌足が陰から操っていたというのである。
このあたりの事情は、後にふたたび詳述するが、なぜこのような推理が生まれたか、その梅原氏の推理を、ここに掲げておこう。すなわち、八世紀にいたり、中臣鎌足の末裔の藤原氏が、聖徳太子を丁重に祀りはじめていたからだ。しかも、藤原一族に、何かしらのアクシデントが起きたとき、聖徳太子が祀られたという。その理由を突きつめれば、藤原氏の祖の中臣鎌足が、山背大兄王一族を滅亡させた主犯だったから、とするのである。
梅原猛氏の推理は、斬新だった。だが弱点がある。それは、藤原氏が山背大兄王の一族を祀らず、聖徳太子を重視したことにある。もし梅原説のいうように、山背大兄王一族の滅亡が中臣鎌足の仕業だとして、なぜ藤原氏は、山背大兄王の父親の聖徳太子を祀る必要があったというのだろう。
梅原氏の述べるように、後の世の人々が聖徳太子を恐れていたことは、確かなことのように思われる。それは、「ミイラのようにされて隠された救世観音」の姿からはっきのとする。
平安時代後期には、すでにこの仏像は、深い眠りに就いていた。そして明治初年、廃仏毀釈の狂気は法隆寺にもおよび、秘仏もひきずり出されそうになったのだった。ところが、開帳を迫る役人どもの目の前に、たちまち黒雲がたなびき、雷鳴がとどろいたという。当然作業は中断された。このような前例があったため、フェノロサと岡倉天心が訪れたとき、寺僧たちが「秘仏をみれば地震が起き、天罰によって寺が崩壊する」と恐れをなしたのだろう。けれどもその背景には、聖徳太子を恐れつづけてきた歴史が横たわっているのである。
ならばなぜ、人々は聖者=聖徳太子を恐れる必要があったのだろう。そしてなぜ、 縁もゆかりもない藤原氏が、聖徳太子を丁重に祀ってきたのだろう。
それは、聖徳太子を殺したという罪の意識を、人々が共有していたからではあるまいか。そしてだからこそ、聖徳太子の正体は闇に葬られたのではなかったか。
〈『聖徳太子は誰に殺された?』〉より