山名宗全と畠山義就が上御霊社を攻め「応仁の乱」勃発
「応仁の乱」京の都を焼き尽くした天下の大乱の11年③
■宗全と義就が武力を背景に勝元、政長の罷免を要求
一連の政変のなかで身の危険を感じた義視は勝元屋敷に難を避け、一件が落着すると勝元の軍勢に守られて自分の今出川屋形に戻る。自然、勝元の権威は上昇した。これに危機感を抱いたのが宗全である。彼は年末の12月25日に至って河内で活動していた畠山義就を呼び寄せた。勝元─畠山政長ラインへの対抗のためである。先んじて京に軍勢を集結させた宗全─義就は、言わば天皇と将軍を〝人質にとった〟ことになる。
明けて応仁元年(1467)。いよいよ大乱の幕開けの年である。1月2日、義就は宗全邸に義政・義視を招き、勝元以下、政長ほかの反対派大名たちの罷免を要求。義政はこれを拒否したものの、政長の京・万里小路の屋敷を義就に与えることは許可し、政長に明け渡しを命じる。これに対し政長は命令を拒否していたが、16日に宗全が義視を室町御所に移してしまい、将軍とともにふたつの〝玉〟を握った形になると、「屋形は要害も無き平原にて、猛勢を引き受けての合戦成り難」しと18日早朝みずから屋敷に火を放ち、上御霊社に陣をしいて、千本地蔵堂に布陣している義就に対峙した。両畠山の対立に辟易したのか、京童は「春来れば また打ち返す 畠山 なお諍いの種を撒くらむ」と落書している(『応』)。
一連の事態に対し義政は畠山家内部の争いとして「他の者はどちらにも加勢するな」と命じて細川・山名双方に手出しを禁じたが、義政だけでなく義視も監視下に置き、さらには後土御門天皇と後花園上皇まで室町御所に迎えた宗全にはそんな抑制はもはや通用しない。彼は義就を応援してその日の夕刻から上御霊社を攻めた。その数は不明だが、『応』には1〜2万とある。これは多すぎるだろう。勝元の下に集まった兵が6000人ほどというから、ほぼ同数だったのではないか。それでも政長の軍勢は2000足らずというから、圧倒的な差である。ただ、勝元の援軍があれば話は別だったろう。
(次回に続く)