大名行列の本質は「儀仗」ではなく「兵仗(軍用)」だった
「戦う大名行列」を解く。乃至政彦氏インタビュー②
■参勤交代の本当の目的とは?
参勤交代は徳川幕府の首都・江戸に諸国の大名たちを「参勤」させ、また別の大名が「交代」して下国する慣例を繰り返させるものでした。大名と家臣たちは遠路はるばる江戸と大名の地元の城下町を往復するので、遠方の大名にとっては大きな負担となっていました。
これについては、三上参次氏が「道中に金を散ぜしめて諸侯の力を殺ぎ」と示して以来、幕府が大名の財政を圧迫することで、反乱を企むような余力を奪っていたとする解釈が定説とされています。確かに高価な衣装を整えた大人数が長距離を移動すれば、負担は計り知れない。武士の面目が問われる一大行事だから、その出費も巨額になる。実際、参勤交代で苦しい台所事情を抱える大名はたくさんいて、幕府も問題視するほどでした。しかし、その一方で、諸大名は萎縮するどころかその豪奢さを競いあっているところもあり、力を削ぐことばかりが重要視されていたとは思われないのです。
参勤交代やその他の大名の行列は、いずれも旗・鉄砲・弓・長柄鑓・馬上の兵科を並べることが習慣化されていました。しかし幕府が行列の武装を禁止したり、抑制したりする法令を出すことはありませんでした。幕府が本当に、労力と財力の浪費を主目的としていたなら、地方大名もその真意を見抜き、より強く反発したはずですが、そのような形跡は残っていません。事によっては参勤交代の制度を逆用し、大名同士で示し合わせ江戸城の攻囲を企むという共謀の恐れもあったでしょう。
消耗させたいなら、ほかにも手はあったはずです。例えば、大名が家臣と従者を国許から江戸まで一度に大人数で移動させるのではなく、役割ごとに人を動かして、段階的に人を移動させる方が、幕府にとって安全であり、大名の反逆行為を回避するのに都合がよかったでしょう。実際に複数の支藩を持つ大名は、分散散布するところもありましたが、幕府は通例として認めませんでした。
この事実より、幕府は大名行列を通して、軍役厳守の継続を求めたのではないでしょうか。徳川時代は、今でこそ「天下泰平」を謳われ、安定した政権を維持した平和な時代だったと評価されています。それは事実ですが、当時を生きた人々はいつこの平和が乱れるか、しばしば不安に陥っていたのではないでしょうか。
日本の軍隊と戦争の歴史を鑑みれば、徳川幕府が大名行列を「儀仗」ではなく、「兵仗」であることを認めていたからこそ厳粛で、「切り捨て御免」のような一見理不尽な無礼討ちも容認されていたように思えるのです。
〈第3回につづく〉
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