東国の陣形を西国の戦いに取り入れた天才・明智光秀
「戦う大名行列」を解く。乃至政彦氏インタビュー③
■「織田政権に伝来する唯一の軍法」を作った明智光秀
信長のあらゆる要求に応えようと、光秀は、自ら軍隊の体制を整え直していきます。最先端の軍隊といえば、「甲雙・越後之弓矢、天下一之軍士(『蓮成院記録』天正一〇年三月条)と恐れられる武田・上杉の「兵科別編成」です。多くの戦いを通して、その実態を観察する機会も多かったことでしょう。
そして光秀は上杉・武田と同じ軍役の方法を工夫する形でオリジナルの要素に、年貢の量から軍役の基準を定める貫高制を融合させた形で、最先端のさらに先を行く一八ヶ条の「軍法」を創出するのです。その内容はというと、一~七条目は軍規、八~一八条目は軍役を取り決めています。両者が一体化された文書は戦国時代のみならず、徳川時代の史料にも類例がありません。
※貫高制とは、土地から取れる年貢の量を貫文(銭)で換算し、軍役などの基準とした制度。
特に八〜一八条までの「兵科別編成」の軍役は、東国大名以外では初の試みで、しかも一〇〇石単位の軍役基準に基づくものは先例がなく、特異な史料です。さらに 「織田政権に伝来する唯一の軍法」(藤田達生『蒲生氏郷』ミネルヴァ書房、2012年) であり、織田氏のほかの重臣たちを見渡しても「兵科別編成」を調えた形跡はみられません。
信長には、正親町天皇に披露する「御馬揃」の惣奉行に命じられた以外に大規模な軍隊を訓練した形跡がありません。麾下の部将が集めた軍隊が織田家独自の軍法に従っていた形跡もないのです。織田氏には上杉や武田のような統一的な軍法を作っている余裕も必要もなかった。光秀の軍法は、こうした現状をひとつの課題として克服しようとしたのかもしれません。