徳川時代、平和が続いた背景に「大名行列」が。
「戦う大名行列」を解く。乃至政彦氏インタビュー④
■近世軍隊の反面教師になった伊達政宗
織田信長はご存知のように戦争は強いですが、特殊な軍隊を作った形跡がないのです。長鑓隊と鉄炮隊を多用しましたが、謙信や信玄ほど細かいルールを作って、計画的に動かす使い方は好みませんでした。最初から最後まで少人数で自由に動き回り、軍事カリスマとしてそのとき自分で統制できる範囲の者たちに命令を下すことで、彼らに結果を求めるのが信長の用兵だったのです。
幕府が兵科の配備率を指定するに至った理由は、この大坂夏の陣にありました。政宗は冬の陣同様、先鋒を除く諸隊を鉄炮隊ばかりで固めます。そして大坂総掛かりの前日に起こった道明寺合戦で、後藤基次と交戦した際、政宗はものすごい銃撃を浴びせて基次を引かせます。その烈しさは異常で、政宗は敵味方構わず撃ち放ったといいます。おかげで勝利をもぎ取りますが、味方であるはずの大和国衆の神保氏は政宗の銃撃で全滅。しかも交戦中に弾切れとなってしまいます。そのため、大坂から後藤軍の救援にやってきた真田信繁を追撃することができませんでした。
翌日、信繁が家康本陣に決死の突入を仕掛けた時も、政宗は家康のすぐ側に布陣しますが、前日の弾切れで政宗は継戦能力を喪失していました。このため、真田隊の猛攻を阻止することもできず、家康本陣が崩壊するのを傍観していたと言います。諸隊の奮闘により、真田信繁は討ち死にし、家康は何とか一命を取り止めます。そして、その日のうちに大坂は落城し、豊臣家も滅亡。こうして元和偃武による天下泰平が訪れたのです。
しかし、秀忠は政宗の編成に疑問を抱きます。打ち上げ花火のようにパッと煌めいて、その後は弾切れで安全圏から合戦を傍観する。こんな振る舞いが許されていいのだろうか……そこで編成の基本ルール作成を検討することになります。
翌年、秀忠は軍役の基準を発し、幕府軍の基礎を築きます。ここで秀忠の定めた兵科比率は、大坂の陣で政宗が使った陣立と全く異なり、長柄の配備率が高いものとなります。しかも、それは幕末まで大きく変化することはありませんでした。偏った兵科配備を行わせないことが近世日本における用兵思想の原則となり、政宗の独自編成は近世軍隊の反面教師となったのです。