『新潮45』廃刊の真相と小川榮太郎氏の正体とは(後編)
放置しておくと、自分たちのクビを絞める結果になる
■『新潮45』廃刊問題の本質
『新潮45』で漫画『プリニウス』を連載していたヤマザキマリは、こうツイートしていた。
「新潮45がいくら休刊になっても、この顛末の火種となった文章を書いたひとたちが今までと変わりなく、あのような考え方を懲りずにどこかで晒していくのだろうかと思うと、連載掲載の場が失われたことよりも、それがなにより残念だ」
この言葉に尽きるだろう。
小川は反省のかけらもなく、デタラメな陰謀論を繰り返している。
「私を非難した新潮社とリベラル諸氏へ」という記事(『iRONNA』2018年9月28日)には、変な日本語でいろいろ書いてあったが、一行にまとめると「オレは悪くない」。ネットには自分を擁護してくれる声があるのに、自分を責めるのは「恐ろしく傲慢な事」だって。
小川の妄想は止まらない。
「それにしても、なぜここまで事は急激に運ばれたのか」
「あの森友・加計学園問題を報じた朝日新聞による倒閣運動を日本社会は放置した。保守政権叩きでさえあれば、ファクトなど今の日本の大手メディアはもはやどうでもいいとの不文律が、これで出来てしまったと言える」
「朝日新聞と新潮社の『あまりに常識を逸脱した』行動で、日本社会はファクトもオピニオンの公平な提供も、全く責務として引き受けようとしない大手メディアによって、完全に覆われることになった」
「日本は平成30年9月25日をもって、『言論ファッショ社会』に突入したという事にならぬかどうか―。実に厳しい局面に日本の自由は立たされている」
実に厳しい局面に立たされているのは小川だろう。
もっとも、このようなおかしな人間はどこにでもいる。
問題は、特集を書いたライターの選択だ。特に、安倍のヨイショ本くらいしか書いたことのない経歴も怪しい自称文芸評論家に記事を書かせたことが致命傷となった。
そういう意味では『新潮45』の若杉良作編集長の罪は重い。
私は長年にわたり若杉編集長と一緒に仕事をしてきた。
2015年の大阪「都構想」の住民投票の際も、泊りがけで取材した。
彼は最後の最後まで熱心に動き回っていた。
信頼できる真面目な編集者だと思っていた。
しかし、今年になってから急に誌面が変わり、極端なネトウヨ路線になってしまった。
政権批判が多かった私の連載「だからあれほど言ったのに」も終了した。
今年になってからは、二度くらい一緒に酒を飲んで、「きちんとした右翼に原稿を依頼するならともかく、論外のネトウヨに記事を書かせたら、新潮社の名前を汚すことになりますよ」「引き返すなら今ですよ」と伝えた。
その時の彼の返事は明かさないが、がっかりして自宅に戻ったのを覚えている。
社会が甘く見たり、面白がったりしているうちに、オウム真理教は拡大していった。
変に物分かりがよくなってしまった人たちが、オウムの施設を追い出そうとする地元住民に対して、宗教弾圧だとか、オウムにも権利があると言い出した。小川が嫌う「人権思想」が、社会のダニを排除できない状況を生み出している部分もある。
しかし、出版業界は今回の『新潮45』の廃刊で気付いたのではないか?
便所の落書きを放置しておくと、自分たちのクビを絞める結果になると。
小川及びその周辺にいるいかがわしい連中に対し、出版業界は毅然とした対応をとるべきだ。今、日本にとって一番大切なことは、小川を逃げ切らせないことである。そして、あの手の連中の所業をすべて暴き出すことだ。
(敬称略)