江戸城と2代将軍徳川秀忠
外川淳の「城の搦め手」第75回
徳川といえば、初代家康・2代秀忠・3代家光である。『歴史人』でも過去に徳川3代が江戸幕府を確立させる過程を分析したが、紙幅の関係から語り尽くせない部分もあった。
そこで、この「BEST TIMES」を利用し、3代のなかでも、秀忠と江戸城の関係にスポットを当て考察を加えてみたい。
じつは江戸城が天下一の巨大城郭へと進化するステップにおいて、2代将軍秀忠の方が初代家康よりも果たした役割は大きい。
■江戸城本丸蓮池濠
巨大城郭江戸城を象徴する壮大な石垣群。ちなみに、正月の一般参賀では、通常の東御苑参観では探査できないエリアも通行可能なことも、なきにしもあらず?
家康は、秀吉の命によって本拠を駿府から江戸へ移すのだが、豊臣政権の重鎮として上方に滞在する時期も長かった。
■駿府城内に建立された徳川家康銅像
家康の銅像は、ほかにも岡崎城、浜松城、静岡駅前、江戸博などにあり、徳川歴代将軍のなかでも、銅像の数では断トツの1位!
文禄2年(1592)年、家康から江戸城の留守を任されて以来、秀忠は、榊原康政、大久保忠隣らの補佐を受けながら、江戸城の強化と、城下町の発展に意を尽くした。
家康は将軍の座を秀忠に譲るとともに、駿府城を隠居所としたことから、江戸との関係は、より希薄になった。
一方、秀忠は亡くなるまで江戸城を生活拠点としており、江戸の町が「将軍様のお膝元」として発展する様子を見守り続けている。
その間、江戸城は、全国の大名を動員することにより、しまりがないほどの巨大城郭へと進化を続けた。
家康については、平成6年(1996)、江戸東京博物館の敷地内に都区内初の銅像が建立された一方、秀忠は都区内にとどまらず、その銅像は存在しない。
というより、秀忠からみの史跡は数少なく、私が把握する限り、浜松市内の産湯の井戸と、小諸城の憩石(腰掛岩)の2点に過ぎない。
■小諸城三の門の前に伝わる徳川秀忠憩石
秀忠が上田城攻めの前後、小諸城を本陣としたとき、門前の石に腰かけたという。
秀忠は、江戸城を巨大化させるとともに、新しい時代を切り開いたリーダーとして再評価されるべきだと思う。