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明智光秀の足跡を訪ねて③坂本城跡は広かった

季節と時節でつづる戦国おりおり第351回

■明智の城、坂本城跡周辺を歩く

前回:明智光秀の足跡を訪ねて②焼き討ちの古址、延暦寺〈後編〉】 

 比叡山を下り、琵琶湖方面へ。湖岸沿いに国道161号を北上するとすぐ右手に見えてくるのが、坂本城址公園。

 

 そう、元亀2年(1571)に比叡山焼き討ちでの功によって主君・織田信長から近江国滋賀郡を与えられた光秀が、その直後から築城工事を始めてあっという間に竣工させた坂本城の跡です。湖岸に面したこの公園は、その城の舟入など琵琶湖に接続する部分があったと考えられる場所で、公園内には光秀の像も立っています。

 

 この光秀は京都の方向を望んでいるようですね。
 坂本城はここだけではなく、国道を渡って北西へ、町中に入ったあたりにもその痕跡があります。

 

 公園からおよそ200mほど離れた下阪本にある東南寺さん。その境内は坂本城の敷地内だった場所ということで、さらにここから西へ50m歩くと、旧街道に出ます。

 

 

 その辻に建てられているのが、坂本城址の石碑。
 もう一度国道に戻って、北へ進みましょう。

 

 うっかり見落としてしまいそうですが、「坂本城本丸跡」の石碑です。この近くの湖岸では渇水時になると湖中に遺る本丸の石垣の遺構が姿をあらわすそうですが、この日はあいにく満々を水がたたえられており、確認できませんでした。残念。

 ここから公園までの距離が200mほど。だいたい250m四方が坂本城の範囲だったようですね。「信長が安土山に建てた物に次ぎ、この明智の城ほど有名な物は天下に無い程であった」(フロイス『日本史』)と絶賛されるほどの巨城で、天守・小天守を備えていたと考えられる坂本城。天正10年(1582)、光秀が羽柴(豊臣)秀吉によって敗れたために主を失い、炎のなかでその姿を地上から消し去りました。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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