上杉謙信が「川中島の戦い」で圧勝できた本当の理由
「車懸り」と大名行列。両者の用兵思想は通底している
■「車懸り」の目的
謙信が使った「車懸り」は、諸兵科が連合して敵隊を押し開き、本営へ乱入することを目的としている。軍事用語でいう「諸兵科連合」の形式を使っているのだ。これで、足軽や雑兵の背後に控える敵の重要指揮官を多数討ち取っていくのである。
これを首尾よく実行した謙信は、信玄とその長男を負傷させたばかりか、信玄実弟の武田信繁、参謀格の山本勘介、古参の室住虎光といった枢要人物を討ち取った。豊臣秀吉の組織に例えれば、信繁は大将実弟の秀長、勘介は参謀格の黒田官兵衛、諸角は古参の蜂須賀正勝に相当する上級指揮官で、彼らを一度に討ち取られた合戦は、武田家にとって絶望的な大事件だった だろうと想像される。
会戦後、謙信は家臣に感状(武功の証明書)を複数発給したが、信玄に至っては確かな感状 が一通も残っていない。重要人物を多く失った信玄の陣中には、上杉軍を後退させ、勝ちのこったことを祝う余裕などまったくなかったようである。 ただ、上級指揮官を失っていない上杉軍も、武田軍の比ではないが、少なくない一般兵士を 失っている。これは謙信の「車懸り」が、「肉を切らせて骨を断つ」型の戦術であったことを物語っているだろう。
川中島で使われた「車懸り」は、相手の上級指揮官を討ち取ることを目的とするため、敵味方の足軽・雑兵の損耗を軽視している。ある意味、相打ちを狙うかのような、とてもリスクの高い用兵だった。
近世の大名行列もこれと同型であるとすれば、武士の歴史を見るうえで注目すべきフェノメノンであるといえる。近世の武士がどういう価値観と死生観に生きていたかを考えるうえで、重要な考察材料になるに違いない。
戦国時代の「車懸り」と近世の大名行列が似通っているのは、謙信の用兵思想に、武士の本能を強く揺さぶるインパクトがあったためだと考えられる。「車懸り」と大名行列──。
一見、突飛な比較かもしれないが、両者の用兵思想は通底しているのだ。その理由は中世から近世に移行する武士たちが求める有効性や革新性があったためとも考えられよう。
そうだとすれば一種の刺し違えに近い作戦隊形が、大名行列として全国に普及していった経緯をよく見つめなければならない。
本書では中近世移行期の武士の行列を見つめることで、彼らの用兵思想の実相を明らかにする端緒を開ければと思う。武士道精神の一端もまたここで垣間見ることができるだろう。
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