議論の勝敗だけにこだわる「知識人ごっこ」の輩を実名で糾弾する【中野剛志×適菜収】
中野剛志×適菜収 〈続〉特別対談第5回
■オウム真理教が出てきたときの知識人の反応
中野:新型コロナを巡る知識人の言説で特にあきれかえったのが、新型コロナ対策で外出を自粛するのを「生命至上主義だ」と批判する連中が出て来たことです。
生命至上主義を批判するというのは、「自分の命よりも大切な価値があると構えるべし。自分の命が何よりも大事だなどとやっているようでは、みっともない生き方しかできない」というような議論ですね。西部邁先生は、戦後日本人の精神構造を批判して、よくそういう議論をしていました。
この議論自体は、自分自身の生き方の規律としては、正しいとは思いますよ。でも、この議論は、感染症対策に当てはめるようなものじゃないでしょう。
当たり前の話ですが、感染症対策は、自分の命を守るというだけではなく、他人に感染させて、他人の命を奪わないようにするためのものです。「俺は、自分の命なんか惜しくはねえぞ」ってイキがるのは勝手ですが、「俺は、他人の命なんか惜しくはねえぞ」ってイキがっている奴がいたら、そりゃ、取り締まらなきゃ駄目でしょう。
生命至上主義批判をしている知識人は、もし自分のせいで他人が感染して死んだら、嘆き悲しんでいる遺族に「命より大切なものがあるだろ」って諭すんですか? 自分の御大層な死生観を、人に押し付けるのはやめてくれって話ですよ。
ところが、藤井氏は、小林よしのり氏との対談の中で、こんなことを言っている。
《「もう寿命も近いから、コロナだろうが何だろうが、死ぬのは構わない。それなら残り少ない日々を、外に出て楽しく過ごしたい」という気持ちだって、何人たりとも妨げることはできないはずです。そこが通じない現状には、全体主義的な生命至上主義の怖さを感じてしまいます》
適菜:つっこみどころが多すぎますが、そもそも「気持ち」を妨げることなど不可能だし、誰もやろうとしていない。「そこが通じない現状」ってなんなんですかね。
中野:そうです。「何人たりとも」とか大げさな表現をしていますが、実にナンセンスな発言です。そもそも、外出したいという「気持ち」を妨げようなどとは、誰もしていないし、できない。妨げようとしているのは、外出という「行動」でしょう。
もっとも、藤井氏は、緊急事態宣言など、外出という「行動」を妨げることを指して、全体主義的な生命至上主義だと言いたかったのでしょう。それなら、まあ、批判としては一応成り立つので、そう読み換えておきましょう。
でも、そうだとすると、今度は、「何人たりとも妨げることはできない」って、何を根拠に、そんなことを言っているんでしょうか、って話になりますね。
そもそも、一般論として、自由主義国家であっても、公共の福祉のために、私権を制限することはあり得るというのは、憲法の教科書レベルの話です。ましてや、人にうつして感染を拡大させてはいけないという公衆衛生上の立派な理由があるんだから、政府が規制によって外出を妨げることはできるでしょう。いや、むしろパンデミックから国民を守るために公衆衛生上の規制措置を講じることは、政府の義務ですらある。その公衆衛生上必要な外出制限措置に「全体主義的な生命至上主義の怖さを感じてしまう」というのは、極端な自己中心主義者だけです。しかも、日本の緊急事態宣言は、欧米で実施されたロックダウンほど厳しい措置ではなかったのですよ。
結局、生命至上主義批判って、気を付けないと、単なる知識人の自己中の裏返しだったりするわけです。(くどいですが)「Oh, Yeah, Oh, Yeah」したいという自分勝手を、生命至上主義批判で正当化しているだけ。生命至上主義を批判して「俺は、死んでみせる」と大見えを切るのは結構ですが、人様に迷惑をかけたり、巻き添えにしたりしないで、一人で勝手に死んでくれよっていう話ですよ。
適菜:保守を自称しながら、都合よく自由主義者になってしまう。いや、こういう言い方は自由主義者に失礼ですね。校則がおかしいと言って、イキがってみせる中学生レベル。
中野:そういう言い方も、中学生に失礼ですよ(笑)。それはともかく、この藤井氏の発言は、彼自身が感染対策として「高齢者は、徹底的に隔離すべし」と言っていた話とも矛盾する。外に出て楽しく過ごすのを何人たりとも妨げることができないなら、どうやって、高齢者を徹底的に隔離するつもりなんですか。
要するに、物事をまじめに考えずに、単に生命至上主義批判というテンプレートを使えば知識人ぶることができると思って、それを当てはめてはいけない事象について当てはめて論じてしまったということです。実に、タチが悪い。
ところで、新型コロナを巡ってデタラメを言う知識人には、オウム真理教が出たときの知識人の振る舞いを思い出させるものがありますね。
あれは、80年代から90年代にかけて、バブルでみんながふざけまくっていたときです。その後も構造改革とか言ってふざけまくって日本をダメにしてしまったわけですが、当時は言論も弛緩していた。商業主義でウケればなんでもいいとなっていたんでしょうね。ちょっと気の利いたことを書いては、新しい知識だ、新しい理論だと言って調子に乗っていた。あの頃の知識人は、何を書いてもカネが稼げた時代だったと聞いたことがあります。当時は、「朝まで生テレビ」なんていう番組が全盛期だったですね。
当時の知識人というのは、そういうふざけた連中ですから、オウム真理教に対しても、高をくくっていた。この平和な日本でテロ行為を宗教集団がやるなんて夢にも思わずに、麻原彰晃を面白がっていたんです。ポストモダンの理論なのか何なのか知りませんが、もっともらしく解釈してみせて面白がっていたんですよ。
適菜:中沢新一、島田裕巳、荒俣宏、吉本隆明……。テレビ朝日の『ビートたけしのTVタックル』に麻原彰晃を呼んだり。国家による宗教弾圧だとか言っていた「知識人」もいましたね。それをまたオウムが教団宣伝の材料にしていた。